「手」という地名は現在使われていませんが、明治二二年から昭和二五年まで川上郡の自治体名として「手荘村」がありました。それは、領家、地頭、三沢、七地の四か村と臘数の本村、佐々木村の吉木を合併したものでした。その後、昭和二五年から二九年にかけては、前の村名を継承して「手荘町」となりました。いずれも中世の「手荘」に由来した地名でした。
古代には、平安時代の百科辞書「和名類聚抄」(「高山寺本」)に「下道郡弟翳郷」として書かれていて「訓に弖国用手字」としています。(眞福寺本」には「弟翳郷」として訓に「勢」としていますが、意味が定かでありません。「弟翳郷」という地名は、「弟」に意味のない「翳」(かげ)の字をつけて用いています。
おそらく、当時は「国郡郷名は好字を用いること」(元明天皇詔=「続日本紀」)が言われていたり、その後「延喜式」(九二七年完成)でも郡里の地名は二字として好字を用いたことから「弟翳」の表現になっているのかも知れません。吉田東伍の「増補大日本地名辞書」(明治三三年)には、『今手荘村、手荘の大字に領家、地頭あり、山中の小駅とす、「和名抄」に弟翳を「勢」と訓があるのは「弖」の方が正しい…』と書いています。この郷名の比定地ははっきりしませんが、領家川の下流、中世の「手荘」の範囲で、明治二二年の「手荘村」付近が比定される地域だといわれています。いずれにせよ、古代のころから「手」という地名があったことは確かなのです。
中世になると「手庄」が成立していて、荘園だったらしく「蔭涼軒目録」(「川上町史史料編」)の長享元年(一四八七)一〇月二六日の条に「代官妙厳が手荘年貢二三〇貫文で寺納していたが、彼は高橋兵庫介を下代官として管理させていたが、不作だった年に二〇〇貫文しか寺納しなかったため、妙厳は兵庫介を訴え争論が起こっていることが記録されています。また、吉備津神社文書の「流鏑馬料足納帳」(「県古文書集」)に康正三年(一四五七) 丁丑の項に「一貫文手直納三百文」と「手」の地名が書かれ、また「吉備津宮惣解文」(「前楊書」)にも河上郡六郷として「手郷朱砂紺青各十両犬甘松若丸」と書かれやはり中世の手郷が出てきます。「手荘」という荘園が発生した年代は不明ですが、室町中期以後は相国寺領でした(「日本荘園大辞典」)。また、天正四年(一五七六)には毛利輝元より「手之庄」七〇〇貫文が手之城(国吉城)の城番口羽春良(通良次男)に与えられています(「毛利輝元知行宛行状」=「川上町史」)、「手荘」の比定されている領家、地頭は中世の下地中分による地名だろうと考えられています。(拙稿・「地名を歩く」四十八「領家」及び十九「地頭」参照)
近世になると領家、地頭、三沢、数、大竹、高山、 二箇七地、高山市などの村は、それぞれ幕府の支配や成羽山崎氏の支配、松山藩池田氏の支配そして水谷氏の支配を経て成羽山崎氏、撫川戸川氏、布賀水谷氏などそれぞれ村ごとに支配を経て明治を迎えています。明治二三年から「手荘村」となって、手荘中学校、手荘農林学院などができ、昭和二五年に「手荘町」として六大字をつくり、歴史的な「手荘」の地名を継承してきました。現在は川上町となって、歴史地名が使われなくなりましたが、「手」という地名は古い地域の歴史を物語る地名なのです。
「手」という地名は「方向」とか「場所」などを表すのによく使われています。接頭語の「た」が転化して「て」に用いられることもよくあるのです。万葉仮名の「た」、「て」にも当てはまるのです。いずれにせよ歴史地名としての「手」の意味は難しい地名の一つなのです。
〔文・松前俊洋さん〕