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地名をあるく 61.有漢 中村

ページID:0008021 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 有漢町にあった古い地名「中村」を取り上げます。

 「中村」という地名は、江戸時代から明治八年(一八七五)まで使われていた村名で、上房郡下有漢村が上村(拙稿「地名を歩く五十六」参照)、中村、下村と分かれて成立していました。当時の三つの村は隆起準平原といわれる老年期の小起伏面を有漢川が侵食して流れる上流域にあった村々でありました。「中村」は北部の上村と南東部の下村に挟まれた地域で、村の境界は入りくんで複雑でした。現在、北から貞森・城下・元重・羽場・大谷の地区が当時の「中村」に当たります。江戸初期の「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五・四六)には下有漢村として一〇八〇石余りと書かれていますが、その前の慶長(一五九六〜一六一五)の「小堀検地」(「有漢町史」)には上村四二九石余り、中村三二九石余り、下村四〇二石余りと村を分けて記されています。その後の延宝年間(一六七三〜八一)頃の「水谷検地」(前掲書)では中村六一二石余りとあり、かなり石高が増加していて、水谷時代には松山藩の産業経済が発展した時期だったのです。そして元禄八年(一六九五)の「新検高」(前掲書)では、中村八一二石余りとなっていて石高が一層増加していて、地域農民の負担は増大し、生活が一層苦しくなったため、訴状を出して抗議し、幕府へ越訴(手続きを踏まず、直接上級の役所へ訴えること)をしています。

 中村は、延享元年(一七四四)までは、松山藩領でしたが、同年から有漢の中村・下村は中津井陣屋(現真庭市中津井)伊勢亀山藩の「備中国御残領」となり、残り一〇一〇石余りが松山藩領となって村の様子が変化しています。

 「備中村鑑」に、「石川主殿頭様、御陣屋中津井として、八一一石余り、上房郡中村大庄屋綱島宏一郎」と記しています。幕末になって「天保郷帳」(天保五年=一八三四)には、下有漢中村として同じく八一一石余りと書かれています。天保一三年(一八四二)の家数は九〇でした(「有漢町史」)。その後明治八年(一八七五)に下村・上村と合併して有漢村となっています。

 貞守地区の南には、「有漢冨士」と呼ばれる信仰の山、権現山(五九九メートル)があり、権現様も祀られ、以前大蔵山真光寺はここにあったといわれています。また、城下地区には、二〇〇メートル前後の台地状の丘に秋葉三郎重信が承久の乱(承久三年=一二二一)の功により地頭職を与えられ有漢郷を賜った頃に築城したと伝えられる台ケ鼻城址があります(拙稿「地名を歩く」二十四参照)・(「上房郡誌」)。そのすぐ南の元重地区の山中には秋葉氏の家臣之墓といわれる天正年中(一五七三〜九二)の墓石が残っていて、中世有漢の歴史を偲ばせてくれます。また、有漢川の右岸の南向斜面に集落が開ける羽場地区は、昔、多和山峠への道と上有漢方面への道との分岐点となったところで、交通の要地でありました。山麓には江戸時代、代々庄屋を勤めていた綱島屋敷の跡が残っていて井戸や古い様式の石垣(「穴太積」を思わせる)や古い墓地が残っています。また、その南西の多和山峠への往来に沿って大谷地区があります。多和山峠は古くからの交通の要衝で沢山の人々が往来した峠らしい峠でした。茶店や宿屋もあってにぎわったといわれています。今でも牛馬安全供養の碑などが残っています。山間の地形を表わす迫地名も多く、「八迫」といわれる迫で知られています。

 「中村」という地名は、上・中・下とか前・中・後など位置関係を示す地名として日本ではよく使われています。

 「中」は有漢川の上流・中流・下流と分けて地理的中央とか三分割の中央などを意味していて、「中流にある村」「真中にある村」を表わす村名で、分かりやすい地名の一つです。
(文・松前俊洋さん)