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地名をあるく 63.南町

ページID:0008026 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 高梁市「南町」は北の下町通りから花みずき通り(旧牢屋小路)を隔てて南へと続く町通りで、近世松山城下町六町の一つで、寛文一〇年(一六七〇)水谷勝宗によって取り立てられた町人町の一つでした。今でも当時の町割が残っていて北から南への町筋は、山手側(東側)の風呂屋小路・川手側(西側)の太左衛門小路付近から折れ曲がり南へと町通りが続き、直角に折れ曲がる横町を通り、川に沿ってムクゲの植えられた土手を下る備前往来の町筋でした。南にはムクゲ垣番所(町口番所)と木戸が設けられ、そこには定番が居て城下への出入りを取り締まっていました。その南の端には総門が設けられ、門番が非常時だけ門を閉めていました。(「備中松山城及其城下」)

 「南町」は五町の町の一つ(東町を除く)として地子免の特権を与えられていましたが、南町全域ではありませんでした。池田氏の頃より自然発生的に下町に続いて南へ延びていた風呂屋小路、太左衛門小路付近までの九八間程の町は、間口一間につき米九升の年貢を納めていました。(延享元六十三年=一七四四=『松山六カ町差出帳』市図書館)即ち、現在の町筋の折れ曲がった付近より南の町は、水谷勝宗が産業を奨励するため計画的に取り立て、牛の売買をすすめた「南町」でした。「本町・新町・下町・鍛冶町往古より無高御免許の地にて御座候ゆえ、…一切町方へかかり候の事御座無く候。南町の義右同様。」(「前掲差出帳」)とあって地子が免除されていたのです。そのほか、松山藩の商品作物だった茶の商売は南町だけに限り許しました。延享元年頃の南町の人口は「城下六カ町」の内で最も多く、九〇五人、そして世帯数二七八軒(「増補版高梁市史」)でした。南町通りには、東側に三カ所の横町があって東町や原村とつながり、西側には四カ所の横町があって新丁(弓之町)につながっていて、町の長さ五町五九間、往来の幅三間の町だった。(「六カ町差出帳」)と記録されていて、今でも当時の町割を留めているのです。

 水谷氏は、「南町」での牛の売買を奨励しました。その後、天和年間(一六八一〜八四)に、牛市場が開かれたと伝えられ、その頃は弓之町付近の広場で売買していたといわれ、「差出帳」によると経営取締りは町年寄の中曾屋四郎右衛門が運上を取り立てていました。六軒の問屋株があって為長一族を中心にした問屋組織がありました。明治になると為長屋の内、問屋には屋号があって、 元為、大上、西為、源七、大下、為長の六軒の牛問屋が町通りに面していて、牛宿も経営しました。問屋には、表に牛を追い込む木戸口があって、毎月の七日、八日の定期市の前日(六日)に木戸口から牛を追い込み裏の広場につなぎました。博労たちは問屋の裏にあった二階建の宿に泊り、一階には売り手、二階には買い手が泊り、混じることがないようにして、牛の売買の仲介をしました。市の日には山陰、関西、四国方面からも多くの博労たちがやって来て、南町一帯は人出で大変賑わったのです。時代によって異なりますが「前掲差出帳」によると、町年寄は牛一疋につき八分四厘、茶一俵につき一分二厘五毛の口銭を取っていました。幕末〜明治初め頃までは、町通りの半分を使って牛の売買をしていましたが、通行不便、牛の糞で衛生上問題だとして、人家や井戸から二〇間以内での取引を禁止して、明治七年(一八七四)牛市が停止され、松山村原(現JAびほく本店付近から南一帯)へ市場を移し、昭和の時代まで中国地方唯一の規模を誇る家畜市場として発展したのです。

 今では当時の問屋や市場の面影も消えてしまい、明治頃の問屋の建物が一軒残るのみとなりました。「南町」には幕末頃の屈指の商家(「昔夢一班」)の中曾屋、中村屋、為永屋、大坂屋、濱野屋、そして大坂屋の裏にあった名物の馬鹿倉(阿呆倉)などもなくなり、栄えていた「南町」の姿も消えてしまいました。

 この町は、江戸時代から昭和にかけて洪水の被害をたびたび受けました。

 商売繁盛の恵比寿宮、嘉永五年の棟札が残る正一位稲荷神社、和霊神社、高瀬舟川湊の常夜燈などが残っていて当時の町の繁栄を語ってくれています。

 「南町」の町名は、下町の南に位置する町人町として付けられた、方角を表わす城下町地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)