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地名をあるく 69.松原町大津寄

ページID:0008037 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「大津寄」は松原町の大字で、「大津寄」という地名には、古くから人々がその地域の地形を見事に表現したもので、地理学的にも興味関心のある地名だと言えます。

 大津寄付近を二万五千分の一の地形図(図幅・「高梁」)で見ると、等高線の間隔も狭く、大津寄東から流れる谷筋と大津寄西から流れる谷筋(畑谷)があって、周辺は吉備高原の四〇〇mを越す山々が多く、急傾斜の山塊が深い谷底へと落ち込んでいて、「大津寄東」や「大津寄西」の集落が谷間の斜面に点在しているのが読み取れる地域です。

 現在、大津寄地区の急斜面は、地滑り防止の個所が多く、平地に乏しい険しい地形の場所なのです。

 「大津寄」の北には、松原町春木、東には落合町原田の「川乱」地区(拙稿・「地名さんぽ」三十八参照)が、西には松原町松岡地区があっていずれも波浪状になった吉備高原上の地域となっています。南には二つの谷が流れ出る底地の落合町福地があります。古くからこの地で生活した人々は、険しい地形の特徴をとらえてうまく表現していて、例えば川乱との境付近の峠を「大ふけ(深い場所)峠」(「備中誌」)とか、「どんでん(どんでん返しの地形)岬」などと呼ばれる場所に地名を付けていてそれぞれの場所には、伝説もあって面白いものです。

 「大津寄」の古代・中世の頃の歴史はよく分かっていませんが、中世には下道郡成羽郷に属していたようで、戦国時代になって「川上郡大津寄村」という村名が見えています。その後、毛利の支配となり、慶長五年(一六〇〇)になると幕府領、「寛永備中国絵図」(寛永一五年頃=一六三八年頃)には、「大津依村」と書かれ、元和三年(一六一七)から松山藩領となっています。正保二・三年頃(一六四四~四六)の「正保郷帳」には「大津依村」六五石余りと記され、寛永一九年(一六四二)には再び幕府領となっています。その後、元和三年(一六八三)からは撫川領、旗本戸と川主馬助(「川上郡誌」・「備中村鏡」では戸川方之の助となっている)となって幕末を迎えています。このときの庄屋に平松市兵衛が記録されています。石高は、畑や水田の面積が増えたため江戸初期より増加していて、天保五年頃(一八三四年頃)の「天保郷帳」では「大津寄村」二〇九石余りと記録されています。明治になって倉敷県、深津県、小田県と属して明治二二年(一八八九)まで「川上郡大津寄」でした。

 この村の産土神は宝暦九年(一七五九)創立と伝えられる、字妙見にある天津神社で境内には享保元年(一七一六)銘の石灯ろうが一対残っていて本殿は一間社流れ造りで、祭神は天御中主神で仏教の妙見信仰と習合する神だといわれる神なのです。秋祭りに行われる渡り拍子は(市の無形文化財)古くから「大津寄」に伝えられ、地元では「京都洞仙流渡り拍子」だと伝えていますが、落合町川乱の深耕寺に花山院が滞在したときに随行者が深耕寺へ伺候したときの礼法を伝えたもの(「増補版高梁市史」)などといわれていますが起源についてはよく分かっていません。

 「大津寄」という地名は、古代語の「潰つえ(つゆ)」とか「崩」から発生した地名で、崩れた崖地とか、切り立った崖地を意味することが多く、山などの土の崩れた所や、崖崩れの所などの「崩壊地形」を表わし、杖・崩・潰などの文字がよく使われています。したがって「大津寄」も同じ「崩崖地形」を意味する地名で、代表的な自然地名なのです。
(文・松前俊洋さん)