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地名をあるく 71.愛宕

ページID:0008041 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「愛宕」とか「愛宕神社」など私たちが良く耳にします。高梁市にも「愛宕」と名付けられた大きな山が二カ所あります。

 その一つは、近世、松山城下のシンボルの山として、海抜四二七メートル、山の形も頂上が狭くて三角状にとがり、近世の城下町時代から形の良い目立つ山でした。神霊が宿っていると考えられて、「水分の神が住み、恵みの水を与えてくれ、春には里に降りて田の神となり豊作をもたらしてくれる神が住む山で、町の鎮守として愛宕(火防)の神や雨乞いの神(龍王宮)が居る山として信仰されて大切にされてきた「愛宕山」があります。

 もう一つは、近世、山崎氏の陣屋町だった成羽のシンボルとして、人々の信仰の山として大切にされてきた成羽「愛宕山」があります。

 高梁の「愛宕山」は、山上に八大龍王が住んでいて、雨を降らせ苗を育成してくれる龍王山として、雨乞い信仰がありました。それは、山上で火を焚いて(千貫焚き「雨をたんもれ、ジューオー(龍王)サン」と唱えながら、雨乞いをしました。雨乞い信仰の山でもあったのです。今でも頂上の大きな岩の上には、竜王宮が祭られています。また、山上には、創立が慶安四年(一六五一)といわれる竜王山長運寺(天台宗)があり、火防神社(愛宕神社)とともに防火の神、火伏せの神として、京都の愛宕神社を勧請し、神仏混淆権現様として、天台宗の修験の山にもなっていました。神社の境内には、延宝五年(一六七七)に寄進された石燈籠、文化一一年甲戌年(一八一四)の銘が残る大きな石鳥居などが、信仰の盛んな時代の昔日をほうふつさせています。また、長運寺の境内には、天和三年(一六八三)銘の石仏が立ち、その横には、市内で一番大きいと思われる地蔵石仏が立っています。江戸時代から「愛宕の信仰は盛んで、多くの人がお参りしました。城下町からは、松連寺の横を通り、楢林に至る正面からの愛宕道、それから楢井坂を登るコース、上谷から現在の国道四八四号のループ橋に沿って、不動明王の横を登る愛宕道などがあって祭りには参詣する多くの人々で賑わったと言われています。そして藩主の信仰も厚かったようで「愛宕山別當(長官の職)御領主代々御建立之所」(「備中誌」)とか。また「上房郡誌」には、「幽邃閑雅(奥深くもの静かな様子)四時(四季)の風光愛すべし」と「愛宕山」をたたえています。また「高梁八景」の一つとして「愛宕秋月」と題して詠まれています。小堀遠州の初期の作と伝えられる頼久寺の庭は安土桃山時代から江戸初期にかけての枯山水の庭園として、「愛宕山」を借景として取り入れています。

 成羽の愛宕山(三七〇メートル)は、陣屋町からよく見える山で、頂上に愛宕社が祭られていて、町を見降ろしています。これは、成羽藩二代山崎義方(一六六七~一七〇八)が、交替寄合衆(老中の支配を受けていた3000石以上の無役の旗本で参勤交替の義務があった)として、江戸の愛宕下にあった愛宕社を勧請して、祭典に花火を奉納したと伝えられ、それが宝永年間(一七〇四~一七一〇)の頃だといわれています。今に伝わる愛宕花火=成羽花火は、この愛宕山に祭られた愛宕権現という火防の神へ奉納したのが始まりなのです。陣屋町の路地にも愛宕小路という町名が残って、愛宕山の信仰の歴史を感じるのです。

 「愛宕」という地名は「愛宕」「阿多古」と書くことが多く、接頭語の「ア」と高(高所)を意味する「タコ」を表す地名ともいわれています。そして「愛宕山」という場合は「阿多古」という神名にもとづくもので、愛宕神社という火の神、火伏の神を祭っていて、愛宕信仰による伝播地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)