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地名をあるく 76.高山市

ページID:0008052 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 今回取り上げる川上町「高山市」は、拙稿「地名をあるく」(二十二回「高山」)と関係している地名で内容も重なる部分があります。「高山市」は川上町の西の端にあって、吉備高原上の標高四五〇~六〇〇メートル付近に位置しています。東に川上町高山・七地・下大竹があり、西には広島県神石高原町の豊松が、南には井原市芳井町が、北には備中町平川などがあります。

 「高山市」の周辺は、吉備高原の小起伏の山々が広がり、小さな谷がくぼとなった多短谷が樹枝状に展開している老年期の高原が広がる代表的な地域であります。「高山市」の集落の東側には、南からの千峯坂の断層谷を埋めるように噴出した玄武岩の残丘といわれる弥高山(六五三メートル)がそびえています。弥高山の東方には同じく玄武岩の須志山(五二一メートル)がとんがり、この弥高山や須志山の裾付近から東一帯には、山砂利層(礫層=高瀬層)が分布していて「川上面」と呼ばれ、浸食小起伏面を研究する上で最も代表的な地域といわれています。「高山市」の集落から穴門山神社への参道入口付近には石灰岩のカルスト地形が見られ、大きなドリーネ(凹地)があります。

 「高山市」の集落は、高原上の街村(列状村落)となっていて、集落には、東三原分(井原市芳井町)と高梁市の高山市分の境界線が複雑に錯綜しています。それは、近世中期から後期にかけて両村の利害が対立したことがあったと言われ「川上町史」によると「当時村高一三〇石余りの高山市村は、家数六一軒で、その内在方(町の中心から離れたところ)二一軒は農業で生計を立て、残りの四〇軒は穴門山神社の門前に軒を並べ、神社への参詣者を相手に商売を営むという町場的な様相を呈していた」ようで、これは高山市上市(東三原分)の百姓総代が、村内で穀物など扱う新規商売の差し止めを幕府に訴え出た争論文書の一部で、当時「高山市」で東三原村分と高山市村分の利害が対立していて、「相手之者共家居、私共家並ニ引続候場所ニ付、自当村市場商衰徴仕相続ニ抱リ難渋至極仕」(川上町史)」などと東三原村が訴えているのです。そして「高山市村」は、近世中頃に火災で町が衰徴したが、明和年中(一七六四~七一)頃に町並が復興して、備後の北部から備中南部への物資の移動が増大し、笠岡から東城往来もにぎわい、宿場として活気を取りもどすと、五の日の定期市(三斉市)が開かれるようになり、その上、穴門山神社の祭礼日の旧暦二月、一〇月の巳の日には近畿地方や瀬戸内地方からも商人たちがやって来て売買をしました。瀬戸内の海産物・綿・木綿、山間部からは、穀物・たばこ・楮・木炭などが集荷され「高山市」は広域的な市場集落として栄えました。この高原上の市場へ多くの物資が搬入されると、置き場がないため路上で販売したといわれます。今では町筋と当時の問屋や商いをしていた古い店の屋号、商売繁盛のえびす宮のみが往時をしのばせてくれています。

 江戸時代から大正時代まで栄えた「高山市」は、穴門山神社の門前町として、高原上の物資輸送の中継地として、宿場町として、また、市場町として大変栄えていたのです。明治から大正の頃には、備中煙草と江戸時代末頃からの高山牛の飼育、売買も盛んで、いっそう「高山市」はにぎわいました。水谷勝隆が成羽へ入封した寛永一六年頃(一六三九頃)には、高山村のうち松山藩領分高一〇三石余りが「高山市村」分となっていました。「正保郷帳(一六四五~四六)」では、幕府領「備中村鑑」(万延元年頃=一八六〇頃)では、布賀村陣屋旗本水谷領となっています。

 「高山市」の集落の北、約一キロの谷筋に穴門山神社が鎮座しています。赤浜宮とか名方浜宮と呼ばれ、平安時代の創立といわれ、古代の自然崇拝を思わせる鍾乳洞もあり、拝殿には神仏習合の様式をただよわせる柱の装飾や肥後の国の大工の名が記録された格天井の絵、そして蟇股の彫刻、忍冬(すいかずら) 唐草文様の虹梁などなど彫刻装飾が多く県指定の文化財となっています。この神社は寛永九年(一六三二)に本殿や末社など焼失していて、現在の本殿は松山藩主池田長常によって再建されたもので、三間社流造で、彫刻装飾がみごとで県の指定となっています。

 「高山市」という地名は、この地域のシンボルとなっている弥高山(「高山」=「神の山」)と「市場集落」=「市場として栄えたところ」からついた地名なのです。
(文・松前俊洋さん)