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地名をあるく 78.郷

ページID:0008056 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 「郷に入っては郷に従え」という諺があります。地名にも「郷」のつく地名が各地に見られます。「ゴウ」と読んだり「サト」と読んだりすることが多いと思います。平安時代に出された「和名類聚抄」(和名抄)という百科辞書などにも「郷」のつく地名がたくさん書かれています。例えば、「東郷」、「西郷」、「南郷」、「北郷」、「本郷」、「郷内」、「上郷」、「下郷」、「中郷」などです。

 高梁市内にも、宇治町本郷、成羽町布寄の本郷、備中町西油野の本郷や奥郷、平川の上郷、中郷、下郷、布賀の中郷、有漢町の郷などなど、いずれも古くから伝えられてきた「郷地名」なのです。

 「郷」は、古代七世紀の中頃(大化改新の頃)に地方の行政区画として国―郡― 里(のちに郷と改称)の三階に分け、それぞれ国司、郡司、里長(郷長)の役人をおいて、統治させたのが始まりで、それがのちの荘園時代には、郡―郷― 保の単位などで区画され、それが変質して中世から近世にかけて地方の区画単位として「郷村」などにちなむ地名として残ったもので、「歴史地名」の一つなのです。なかでも「本郷」という地名は、本村、元村の意味で、古くからその地域で「最初に開けたところ」とか「役所などあって地域で中心になった村」という意味を表す地名なのです。

 例えば、宇治町の「本郷」という地名は、その地域の歴史を物語る興味深い地名なのです。「宇治本郷」は吉備高原上の海抜三〇〇~五〇〇メートルの山間に開けた盆地状になったところで、成羽川の支流島木川上流で、吹屋往来の街道筋に位置しています。古くには、下道郡穴田郷に属し(「和名抄」)、その後、備中国川上郡となり、慶長五年(一六〇〇)には、幕府領中野村(現・成羽町中野)、元和三年(一六一七)松山藩領中野村、そして元禄六年(一六九三)から再び幕府領となっています。この頃の「元禄検地」には「中野村本郷」として地名があげられています(「備中村鑑」)。この頃までに中野村の「本郷組」、大野路組、小野路組と分村していたのです。幕末から明治頃の「旧高旧領取調帳」にも本郷組、倉敷支配処として三二一石余りの石高が書かれています。その後明治七年(一八七四)に本郷組、大野路組、小野路組が合併して再び中野村となり、明治二二年(一八八九)に本郷組は宇治村に分属して「宇治村本郷」となっています。

 承久三年(一二二一)の乱の戦功で信州よりこの地へ新補地頭としてやってきた赤木氏が滝谷城(標高四八〇m)を築城し「本郷」し屋敷を構えていたと伝えられていて、今でも本郷に土居の屋号も残っています。また宇治本郷に鎮座する産土神清実八幡宮は、赤木氏と関係があったらしく、古くには現在の中野村地区の大氏神だったのか今では宇治本郷の氏神となっていて、中野では現在新しく中野神宇治本郷地区を望む社を氏神にしているのです。また江戸時代、中野村穴田市場(現・宇治町穴田)にある青龍山雲泉寺(曹洞宗)も穴田郷城主赤木氏を開基とする寺院と伝えられています。

 このように、現在の「宇治町本郷」は以前には中野村の中心だったことが分かり、そのまま歴史を語る「郷地名」として残っているのです。

 備中町平川に残る「郷地名」も、建武三年(一三三六)近江からやってきた平川氏が治めたという歴史が伝えられていますが、中世から近世にかけて「郷」の地区はその村の中心となった場所なのです。
(文・松前俊洋さん)