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地名をあるく 82.宇治町穴田

ページID:0008065 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年6月1日更新

 高梁市宇治町に「穴田」という地名があります。「穴田」は、明治一四年~二二年(一八八一~八九)にかけて、川上郡の内、塩田村と丸山村が合併して成立した「穴田村」でした。明治二二年には、宇治村の大字「穴田」となり、昭和二九年からは、高梁市宇治町の大字「穴田」となって現在に至っています。東には高倉町、西や南には成羽町長地・布寄や小泉が、北には成羽町中野や吹屋があります。西からは塩田川が島木川へと流れて合流しています。集落は、枝状に広がる谷筋や窪地状になった斜面に点在しています。そして、小字地名に白和、野呂、日名、宮陰地、陰地などの地名が見られ「穴田」の地形が想像できるのです。

 宇治は、歴史の古い地域で、この「穴田」という地名も、平安時代の「倭名類聚抄」(和名抄)の「備中国下道郡」の頃に「穴田」( 安奈多)とあって、備中一五郷の一つに記録されています。今では、この「穴田」の郷域は、明確ではありませんが、現在の宇治町本郷、宇治町穴田、宇治町宇治一帯に推定される説が有力だとされています。

 中世には、承久の乱(承久三年=一二二一年)の戦功によって、穴田郷など近郷をもらって新補地頭として、信州から赤木氏が中野村滝谷城に入部して、のち土居屋敷に居住していた(「赤木家文書」)といわれています。また「吉備津神社文書」(「岡山県古文書集」)によると、吉備津神社へ「五百文、あなた中村 直納」とか、「壹貫二百文 あなたさか本かくす所」とか、「二貫五百文 穴田西方直納路銭三百文」などと「流鏑馬料足納帳」に康正三年(一四五七)などの記録として「穴田」が納めたという記録が出てきます。また、「川上郡誌」に天正一一年(一五八三)一一月一六日の御前神社(遠原村)所蔵の棟札銘に「穴田郷四箇村」とあって、遠原村など四か村が御前神社の領域だったことがわかるのです。安土桃山時代には、赤木忠房の嫡男、忠道が築城したと言われる丸山城跡があって、高松城水攻めの時、救援にかけつけ、毛利氏より感状と領地をもらい穴田村(塩田)へ移り住んで庄屋を世襲したといわれています。この庄屋の家に伝えられていた赤韋威鎧兜大袖付が国宝に指定されています。

 近世の宇治村「穴田」は、毛利の支配から慶長五年(一六〇〇)幕府領、元和三年(一六一七)松山藩領、そして、元禄六年(一六九三)再び幕府領となり、同八年には松山藩領となって明治を迎えています。

 「穴田」という地名は、古代から伝えられている地名で、市内に残る歴史地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)