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地名をあるく 84.石火矢町

ページID:0008068 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年10月1日更新

 「石火矢町」は、平成十一年、広報たかはし十二月号の「地名さんぽ」で取り上げましたが、その後、史料で明らかになった部分もありましたので、再びこのシリーズで「石火矢町」を紹介します。

 「石火矢町」は、城下町時代にできた古い町筋で、御根小屋を起点として南へ広がる小堀氏時代にできた商人の町、本町、新町、そして、その後武家町として池田氏が取り立てた片原町や「石火矢町」がその東側に並行して走る竪町型の城下町です。江戸時代には「石火矢丁」と書き、武家町には「丁」の文字を町名に付けて区分していました。

 現在、「石火矢町」は、ふるさと村に指定されていて、高梁の町では、唯一の観光地区になっています。昭和時代まで、この町は、朱塗りの長屋門や土塀が続き、書院造りの母屋や庭を持つ武家屋敷らしい家が残っていましたが、今では足軽頭(戦闘集団の先手組の頭)だった折井家(一六〇石)と近習役(藩主のそばで奉仕する役)や番頭役(交代で勤務する番役の長)などを勤めていた埴原家(一六〇石)の住宅のみが昔の姿を今に伝えているのです。折井家住宅も江戸時代の質素な武家屋敷の特徴を留めていますが、特に埴原家は武家屋敷としては、大変珍しい京都の公家風や寺院建築の要素を取り入れた数寄屋様式で、ぜいたくな造りの武家屋敷で市の重要文化財に指定されています。

 埴原邸は、江戸時代中期から後期にかけてつくられた武士の住宅です。文化二年(一八〇五)に編さんされた「松山御家中諸書書」によると、明和五年(一七六八)、市右衛門の五男の与兵衛が加賀の国(石川県)、前田藩より養子に来たとあり、その後、文化二年(一八〇五)には、又右衛門という人が、殿様に御目見得したことが記され、その後、文政九年(一八二六)には、恕(与) 兵衛の子、慎二郎(後・頼母)が御目付役・近習役となり、番頭役になっています。「昔夢一班」でも恕兵衛と慎二郎の名が見えています。明和五年頃には、松山藩四代勝政の母は、この埴原家から出ているのです。埴原邸は武家屋敷らしくない建築で、正面玄関に二間の式台、水引き虹棟の上のかえる股には、加賀前田家と同じ梅鉢の家紋、そして、江戸時代中期以降の建築で入母屋造り桟瓦葺き平入りで、縋破風のついた向拝をつけ、箕甲屋根は寺院を思わせます。また、切妻破風には三ッ花懸魚を取り付け、豪華で一二帖敷きの座敷は、書院造りで板天井に本床造り、そして、禅宗風の花頭窓を付け、柱はすべて面皮にしていて京都の家を思わせる数寄屋風建築なのです。その上、隣りの部屋との境の壁には下地窓(ぬりさし窓)を付け、茶室建築を思わせるぜいたくな武家屋敷で見どころがあります。

 「石火矢」という地名は、安土桃山時代によく出てくる南蛮渡来の大筒の鉄砲のことで、火縄銃に「石火矢」というカートリッジ式の子砲を差し込んで発射したといわれます。松山城下時代のこの町には、鉄砲を扱う鉄砲組などの足軽隊がいたことが考えられるのです。鉄砲の種類の名を丁名にした歴史地名の一つなのです。
(文・松前俊洋さん)