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地名をあるく 94.原田

ページID:0013923 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年12月25日更新

 「原田」は成羽川の左岸、標高四〇〇〜五〇〇メートルの吉備高原上に位置している地域で、東に落合町近似、西に落合町福地、南に落合町阿部、北には松原町神原があって、隣の川乱地区とともに東西南北を囲まれたところにあります。

 そして、吉備高原の侵食小起伏面が発達して、浅い沖積低地と丘陵となっている地形が分布していて、まさに小起伏・多た短谷の地形が見られる地域なのです。集落はほとんどが山砂利層の小起伏の斜面に位置していて、耕地は水の豊かな沖積低地のくぼに水田が、集落の回りの斜面に畑地が分布しています。


 近世の「原田」は、備中国川上郡「原田村」でした。毛利氏の支配から慶長五年(一六〇〇)に幕府領となって、元和三年(一六一七)には成羽藩領、そして寛永一九年に(一六四二)幕府領となり、万治元年(一六五八)から旗本山崎豊治(のち成羽藩)領と支配が移り変わっています。正保二、三年(一六四五〜四六)頃の「正保郷帳」によると、村高八九石余りと記録され、幕末の天保五年(一八三四)の「天保郷帳」では、一八九石余りとなって村高が増加されています。文久元年(一八六一)刊の「備中村鑑」によると「五千石山崎主税介様」の中に「原田村」一六〇石四斗六升、庄屋藤沢亀蔵と記録しています。原田村は耕地も乏しく、石高が最も少ない村だったのです。「備中誌」にも高一八九石、反別一〇町二反余と記録しています。


 文久三年(一八六三)には、松山藩領の川乱村(のち明治一四年=一八八一に原田村と合併した)と成羽藩領だった原田村との間で、村の境界争論が枝村だった野呂谷をめぐって起こっています(「増補版高梁市史」)。事の起こりは、原田村三松の分家の茂作が、松山藩領川乱村との境界辺りへ居宅を構えたことから始まったといわれ、境が入り組んで紛らわしい場所で、川乱村の庄屋仲田治兵衛(治平)の持山続きのところだったので、治兵衛は領分領主は違っても、一つの村と同じ間柄なので、話し合いたいと申し出、茂作側も同意したが、村役人は領主の大境目なので…といって、宇治村庄屋作太郎、成羽領側から臘数村(現川上町領家)庄屋忠太郎を立会人として見分させ、双方納得の上、境界石を改め「取替申内済規定」を定めて決着したといわれています。


 原田村は明治一四年(一八八一)、隣の川乱村と合併しています。同二二年(一八八九)、落合村の大字となり、昭和二九年(一九五四)に高梁市落合町原田となりました。明治二四年(一八九一)の戸数は八八戸、人口は男二六〇人、女二四四人、学校一校(原田小学校)でした。「畝」に寛弘元年(一〇〇四)創立といわれる産土神「諏訪神社」があります。「久保」には「天神社」(創立不詳)があります。今では高齢化が進み、過疎化の激しい地域となっているのです。


 「原田」とか「原」のつく地名は、全国各地にあります。「原」の意味は「田畑のある所」とか、「台地上の平地」などの地名を意味していて、「大きく開けた所」の地名としてもよく使われています。低湿地ではなく、草が生い茂るような所でも窪になった低地で、「平らな所」「開かれた所」を表現する地名としてもよく出てきます。

  (文・松前俊洋さん)