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地名をあるく 91.日名

ページID:0012174 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 私たちが住んでいる周りには、たくさんの地名があります。地名は私たちの生活に必要であるため、できたものです。それゆえ、意味や由来などが話題になり興味が湧きます。地名はそれぞれの土地のイメージを表現し、その地域の歴史や土地の事情や性質を言い表して、必ず何らかの意味を持っています。まさに地名は「歴史の生き証人」なのです。このような地名を研究するのが「地名学」(地理学)で、最近では研究がかなり進んできました。


 中でも最も初歩的で代表的な地名に「日名」と「陰地」があります。市内のいたるところで見られる地名で、「日名の端」、「日名の谷」、「日名の前」など小地名の「日名」が川上町や備中町、玉川町、宇治町などで見られます。中でも大地名としては、成羽町の「日名」が有名です。


 成羽町の「日名」は、吉備高原を侵食して流れる日名川沿いに、小さな河成段丘面が両側の急峻な山に挟まれた地域に集落が発達している場所と、日名川上流には、熊谷川が合流していて、枝状に分かれた谷に沿って集落が点在したところが見られます。


 「日名」は、成羽八幡神社旧記(「渡辺家文書」・「成羽町史」)に享禄二年(一五二九)のこととして「成羽之庄六ケ村末社定り之事」の中に『日名村には当宮地の丑寅御前を勧請有りて丑寅御前大明神を安鎮被申けり』とあり、室町時代から「日名村」だったことが分かります。その後の「正保郷帳」(正保二・三年=一六四五〜四六)に「日名村」として村名があがっていて、石高五四五石余と記録されています。そして、元禄一四年(一七〇一)の「元禄郷帳」では「日名村」が「上日名村」と「下日名村」の二村に分けられて記録されています。明和三年(一七六六)の「成羽山崎領村々田畑高之覚」(「山崎家文書」・「成羽町史」) によれば、「上日名村」五〇三石余、「下日名村」六二〇石余りと書かれています。また「備中誌」(嘉永六年=一八五三)に「上日名村」五〇八石余、枝村に日名畑・和名手をあげ、家数九六軒、人数五〇〇人とあり、「下日名村」には五六三石余り、家数九四軒、人数四二四人、枝村に渡雁と畑をあげています。「上日名村」熊谷川上流の高原(海抜三三〇メートル)の地域は、明和三年の「前掲書」に「福松新開田畑高一五石余」とあって、山崎領の新開地だった場所であることが分かります。


 「正保郷帳」には、福松新田一八石と記録が見られ、その後の明治には「上日名村」に統合されています(「地方行政区画便覧」=一八八六年)。現在の成羽町「日名」には「上日名」と「下日名」の総氏神で成羽八幡神社の地にあった丑寅御前を勧請したといわれる御前大明神が鎮座し、参道には安政二年(一八五五)の常夜灯や頭を角刈りにしたような愛きょうのある、弘化四年(一八四七)銘の狛犬、そして境内には安政一三年(一八〇〇)の石燈ろうなどが、また参道入口の県道を隔てた場所
には、御輿の御旅所が残っていて「栄えていた時代の日名」の信仰の厚さをしのばせてくれます。


 また「下日名」の高台には、宝永三年(一七〇六)創建といわれる真言宗実相寺があります。このような「日名」という地名は、中国地方いたるところに見られます。特に吉備高原や中国山地などの起伏の多い地形のところでは、日照りが山の高さや斜面によって差があり、古くから農業生産に影響するために、山間では特に意識され、日当たりのよい場所が「日名」( 日
向・日南)の地名となり、反対に日陰になる場所に「陰地」「隠地」などの地名となって表現されています。どちらも地域の集落の立地条件を示すもので「日名」は「日当たりのよい場所」(土地)、「南向き斜面」「日に向かう地」という意味でつけられている地名で、自然地名(気象地名)の一つで、地形も想像ができるような分かりやすい地名なのです。
(文・松前俊洋さん)