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地名をあるく 90.津川町実相寺

ページID:0012173 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

「実相寺」は津川町今津から有漢川に沿って国道三一三号線を北へ進んだ津川町八川地区にあります。八川の高下迫から左へ有漢川を渡ると「実相寺」への入口・巨瀬町柳川西の集落から山間の窪を上がったところが「実相寺」です。「実相寺」は山に挟まれた窪地で耕地は階段状になった、ほとんどが水田で、集落は川面町辻前に通じる市道に沿った斜面に点在しています。


 中世から寛永の頃( 一六二四〜四四)にかけての「実相寺」は古瀬、八川村、古瀬両名村などとともに古瀬村(古代の巨瀬郷)に含まれていました。「正保郷帳」(一六四五〜四六年頃)に古瀬八川村三五八石余、「古瀬実相寺村」一一四石余と記録されています。また、天保五年(一八三四)頃の「天保郷帳」では、古瀬八川村として六四〇石余とあって、「古瀬実相寺村」の村名は、あがっていません。恐らく「八川村」に含まれているのでしょう。「備中誌」によると、八川村、家数一〇一、人数四〇八と記録し、小名として「実相寺」「堂屋敷」「石仏」「法花峠」をあげています。


 「実相寺」は、現在、津川町八川(大字)地域に編入され、戸数も減少し二十軒足らずになっていますが、古くから仏教の聖地だった場所で、人々の「信仰の里」として栄えた地域だったのです。実相寺という寺があったのかどうかはっきりしませんが、三十一代用明天皇の皇子聖徳太子の開基と伝えられ、古代仏教の法相宗(南都六宗の一つ)の木堂を中心として、七か
坊があったといわれ、総称して「大石山実相寺」といわれていましたが、康元年間(一二五六〜五七)に放火で古記録など消失してしまって、詳細は不明です。


 七か坊のうち三か坊は無住となって廃寺となりましたが、新坊(現天台寺)・円満坊は天台宗となり、井元坊・大坊は真言宗として四か寺が残っていました(「上房郡誌」)。現在は、天台寺、円満寺、大元寺の三か寺が残っているのみですが、いずれも山号が大石山といい、古代からこの地には石(岩)の信仰がある地域で、「大石山」の山号がついているのです。


 「実相寺」には、三か寺共有の「本堂」が残っていて、これが法相宗「大石山実相寺」一山の本堂だったのでしょう。この本堂には、本尊の阿弥如来、そして向かって右側に不動明王、左側に毘沙門天の立派な三尊仏(いづれも寄木造=室町時代末期の作で市重要文化財)が祭られています。この本堂は松山城主の信仰も厚かったようで、寛文一〇年(一六七〇)に水谷勝宗、安政七年(一八六〇)に板倉勝静も再建建立しています。安藤信友も屋根葺き替えなどを行っています。このように松山藩と深い関係があったのです。本堂の裏には三か寺の鎮主として十二社権現がありましたが、大正三年に稲荷神社とともに八川の和井元に移されています。


 実相寺の上と下の人々は、この本堂に年二回集まり、大数珠で「おかんき」をして、鐘・太鼓を持って各戸を訪れて、「なんまいだ、なんまいだ」と念仏を唱え、接待して祭っていました。また、虫送りの行事を行い豊作を祈ったのです。「実相寺」というのは、この本堂を中心として、たくさんの坊があって、この山間に一山の聖地があったと思われ、国道三一三号線から「実相寺」へ入っていく辺りに「大門」といわれる地名が残っていて、ここには仁王像二体が祭られていたと伝えられていることから「実相寺」という聖地への入口として大きな門があったことが考えられるのです。近辺には古びた薬師如来座像が残っていて、これらは「実相寺」と深い関係があるのではないかと、古い聖地だった時代が偲ばれるのです。


 今でも巨瀬町尾原の御前神社の棟札に遷宮導師として、大石山実相寺の寺の文字が見られ、今津八幡宮などの近隣の神社は全て「実相寺」諸坊と深い関係があったことが分かるのです。また、この地には「実相寺の人々は頭付きの魚は食べない」とか、「本堂の前に大石が現れて、星が石といった五社八幡宮の伝説」とか「蛇骨池の伝説」など、いづれも信仰にまつわる話が多く残っています。


 「実相寺」という地名は、古代仏教(法相宗)といわれる「大石山実相寺」の里だったことから、地名となったのでしょう。また、中世からは村名として「実相寺」となっていますが、もともとは、七か坊あった寺院の一山の里としての地名で、宗教地名の一つなのです。 (文・松前俊洋さん)