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地名をあるく 87.多和山

ページID:0012141 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月18日更新

 高梁から国道三一三号線に沿って北に行くと、高梁市有漢町と真庭市の境に古くから交通の難所といわれた「多和山峠」があります。この峠は、現在、「多和山トンネル」になっています。「多和山峠」は、古くには東の陣が畝山(四八四・三メートル)と西の多和山(四四五メートル)に挟まれた「迫」に当たる海抜約三五〇メートルの付近にありました。峠への登り口には、大谷上組、中組、下組の集落が点在し、南西に流れる大谷川が高梁市巨瀬町で有漢川と合流していて、峠付近は南へ流れる中津井川(旭川の支流)との分水嶺に当たる場所なのです。


 峠のふもとにある大谷地区は、江戸初期頃は下有漢村の枝村だった大谷村でした。その後は、下有漢中村の枝村となったと記録されています。峠の南側と北側とでは古代から文化が異なっていて、北側には定古墳や大谷一号墳があり、大型で古墳の様式も違っています。


 江戸時代の元和三年(一六一七)から松山藩領として、池田氏や水谷氏の支配を受け、後の延享元年(一七四四)から石川氏の支配となって、石川氏が伊勢亀山に転封されると、中津井陣屋の支配を受けて幕末を迎えています。


 「多和山峠」は古くから落合往来の交通の難所で大変淋しい場所でしたが、「多和山越え」として知られ、多くの人が往来し、物資の輸送も頻繁に行われた峠でした。尾根越えの道を登り切ると、向う側の世界が広がって、ほっと一休みする峠として、「こちら」と「あちら」を分ける境目として、また文化を結びつける場所として、古くから人々が「多和山峠」を大切にしてきた交通の要衝でした。峠付近には集落もでき、長い軒をもつ宿屋があって、博労などが泊っていた(「有漢町史」)とか、現在、藤森さんの家のある場所は、以前茶店があった(藤森勝年さんの話)といわれ、峠に関わる家もあって、にぎわっていたことがうかがえるのです。


 「多和山」に信仰も生まれ、牛馬の安全、交通の安全、旅の安全を祈願した「馬頭観音」や「伯楽天王」(馬をつかさどる星)「大日如来」(=明治四〇年)などの石仏が残っていたり、峠へ上がり切ったところには「寛政二戌年(一七九〇)と書かれた石仏が祭られ「境目信仰」(「峠信仰」)の名残が読み取れるのです。「多和山」という地名は、中国地方では「峠」のことを「たわ」と読むことが多く、したがって「タワヤマ」とは「峠山」の意味で「峠山峠」は「たわ」と「とうげ」を重ねて表記した珍しい自然地名なのです。


 「たわ」(たお)は、峠の古称なのですが、国字といわれるもので、漢字ではありません。山の鞍部、すなわち、たわんだところという意味から「たわ」「たお」という呼び方が平安時代以降に使われるようになったといわれています。古くから「たわ越え」という言葉が使われていました。日本は山国で「タワ」「タオ」の地名が多く、特有の文字が充てられていて、峠・乢・垰・撓・多和などの文字は、いずれも「とうげ」の概念をなんとなく表わしていて面白いと思います。「方言文も字じ」とか「地方字」というのだそうです。(「字通」=平凡社)


 また、峠には「柴折り神」という、柴を折って手向ける信仰があって、その「タムケ」という言葉から音便となって「トウゲ」とい
う地名が生まれたともいわれています。(「地名の語源」=角川書店、「地名用語語源辞典」=東京堂、「日本の地名」=岩波新書)


 今では、国道三一三号線に多和山トンネルが開通して、多和山の峠道は往来の面影が薄れて峠の歴史も忘れられようとしています。
(文・松前俊洋さん)