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地名をあるく 88.内山下

ページID:0012142 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月18日更新

 高梁に「内山下」という町名があります。臥牛山の南西麓で、御根小屋跡(現・高梁高)の西麓に位置し江戸時代惣門のあった広小路の出入口を入ると道が北の八重籬神社へ向かって通る町通りを「内山下」と呼んでいます。江戸時代までは「本丁」と呼ばれていた町通りですが、明治になって「内山下」と町名が変わっています。以前は松山城下町のうちで最も奥(北)に位置する場所で、池田長幸が元和三年(一六一七)に入部して、川端丁とともにこの地に家老格など藩の重臣を住まわせ、町の入り口に番所を置き惣門、北門(黒御門)、西門、南門の四カ所の門によって外部と遮断し、重臣の屋敷町として、また城下町の重要地として取り立てた場所でした。


 この地は江戸時代以前の三村氏の時代から、臥牛山頂の松山城、その麓にあった城主の居館(御殿)の麓にあって、当時から公用化していて、小規模な戦国型の城下町が形成されていたと考えられています。


 居館は三村氏の天正三年(一五七五)の備中兵乱のとき焼失しています(「中国兵乱記」)。その後、小堀政一(作助)は慶長一一年(一六〇六)から同一五年(一六一〇)にかけて、政務を執る場所として戦火で焼失していた陣屋を造営していて「御下屋敷御用のため請取もうす枌(薄くそいだ板)のこと」(「岡山県史」=岸本家文書)などと記録があります。当時は下屋敷と呼んでいたことが分かります。その後、水谷勝宗が大規模に御根小屋を造営しています。「御根小屋」という名称は、関東の豪族屋敷のあった集落地名で、背後の山や丘に山城があって、その麓に豪族の館があり、付近に名子などの農民が集住した地域に「根古屋」という集落が残っています。関東から城主としてこの地に入部して来た水谷の頃から「根小屋」と呼ぶようになったといわれています。また、松府城とか御城、御殿ともいわれる時もあったのです。


 このように内山下地域には、城主の日常の屋敷兼政庁があって、「内山下」や「川端丁」は、松山城下の最初にできた町(地域)で、ここを起点として江戸時代の「内町外町型」の城下町が南へと広がって行ったのです。また「内山下」(本丁)には、延享三年(一七四六)に藩士の子弟教育のための学問所が置かれていましたが、後に有終館と改め、天保三年(一八三二)の大火で焼失したため、中之丁に移されました。山田方谷や三島中洲、川田甕江、進鴻渓などが学び、有名な漢学者達を輩出しています。現在でも「内山下」の町筋には、当時の武家屋敷の石垣が残っていて、公用化されていた城下町の最も奥地であり、城下町の発展が「郭内専士型」から「内町外町型」へと移り変わったことが分かるのです。「内山下」の北の端にある八重籬神社は、寛政三年(一七九一)創建されて、板倉勝重、重宗を祭神とした神社で、城下町北の端の対岸から内山下と川端町を望む鎮めとして鎮座しています。


 「内山下」の地名は、岡山市や津山市など中・四国地方に多く、城下町全体を「城」と考えると、山上の城を「本丸」、その麓の領主の館や武家屋敷のある「山下」は「二の丸」にあたるところで、城下町では最も重要な地域で、「城下」と同じ意味を表し、「城堅固」を旨とした時代のもので、高梁の「山下」地名は、この地の最後の戦国大名といわれた三村氏の頃から「山下の家を焼き小屋を破り…」とあり、山麓に武士の家や民家が混在していたらしく、城下町の出来始め頃の「山下」(城下)が想像できる地名なのです。(文・松前俊洋さん)