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清水比庵について

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年4月1日更新

歌人・清水比庵(1883年~1975年)

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清水比庵の写真
清水比庵(1883年~1975年)は高梁出身の歌人です。はじめ司法官から実業界に身を置いていました。
昭和5年(1930年)懇望されて日光町(現日光市)の町長に就任し、日光の観光開発に尽力したことでも知られています。
鞴峠歌碑の写真
「鞴(ふいご)峠歌碑」昭和43年
「水清き 川の流れて 山高し
日は山を出で 川をわたるも
八十六叟清水比庵」
町長就任前から作歌活動を本格的に行い、昭和4年(1929年)には現在の窓日短歌会の前身となる二荒(ふたら)短歌会を主宰しています。
清水比庵作「松竹梅」
「松竹梅」昭和50年 高梁比庵会 蔵
「年年に よき年なれと 祈りつつ
拾ひし年の つもりたるかも 比庵九十三」
清水比庵作「ふるさと春秋」
「ふるさと春秋」制作年未詳
「ふるさとに松山多し
松山に春風ふけば春風の音蕩々たり
松山に秋風ふけば秋風の音颯々たり
春の日は霞たなびき秋の雨は茸群立つ
松山は春も見るべし秋も遊ぶべし 比庵」
また、比庵の活動は短歌のみにとどまらず、独自の境地に至った絵画、書の作品を数多く残しました。
こうした比庵の作品は歌書画三位一体の芸術として広く知られました。

略歴

  

 
元 号 西 暦 出 来 事
明治16年 1883年 2月8日、岡山県上房郡高梁町弓之町(現・高梁市)に清水質(ただし)・スヱの長男として生れる。本名は秀(ひで)。
明治41年 1908年 京都帝国大学法学部を卒業。一時司法官となる。笹田鶴代と結婚。
明治42年 1909年 長女明子(はるこ)が生れる。司法官を退き、安田銀行に入行する。
大正2年 1913年 次女しず子(しずは門構えに月)が生れる。
大正3年 1914年 3月、秋田県横手町の安田銀行支店長となり、翌年、青森支店長に転勤。次女しず子が亡くなる。
大正5年 1916年 東京の安田銀行本店勤務となり、赤坂に住む。
大正7年 1918年 古河銀行の大阪船場支店に移る。この頃、松原三五郎の画塾に通い、人体のデッサンを学ぶ。
大正12年 1923年 関東大震災のため、しばらく、岡山県笠岡町(現・笠岡市)に住む。
大正13年 1924年 横浜の古河電気工業に移り、横浜に住む。
昭和初期   杉浦貴一らの歌誌『満天星(どうだん)』に加わる。
昭和3年 1928年

栃木県日光町清滝の古河電気工業日光電気精銅所経理課長となり、単身赴任する。

7月、処女歌集『夕暮』を発行。この頃、大脇月甫らの『青虹』、花田比露思主宰『あけび』に加わる。二荒(ふたら)短歌会を主宰する。

昭和4年 1929年 5月、合同歌集『赤薙』を発行した。10月、歌誌『二荒』を主宰し、発行した。11月、日光電気精銅所を退職し、横浜の自宅に帰る。
昭和5年 1930年 7月、日光町に懇望されて町長に就任。以後、日光の観光開発の基礎を築いた。
昭和7年 1932年 この頃、中河與一夫妻との親交が始まる。また、日光町出身の日本画家小杉放菴と知り合い、『二荒』の表紙画を放菴が描くようになった。
昭和8年 1933年 12月、歌集『朝明』を発行する。
昭和10年 1935年 号を匕舟、比舟から比庵と改めた。6月、「慈悲心鳥を聴く会」を主催し、中禅寺に萩原朔太郎、岡本一平・かの子夫妻、中河與一・幹子夫妻、若山喜志子、保田與重郎などを招いた。
昭和14年 1939年 5月、日光町長を辞す。10月、日光を去り、千葉県市川市へ移る。『二荒』は石川暮人主宰の『下野短歌』と合併し、誌名を『下野短歌』とした。
昭和17年 1942年 11月23日、妻鶴代が亡くなる。12月、日本画家川合玉堂の賛助を得て、弟清水三渓と「野水会」を創設。第1回展を開催。
昭和19年 1944年 『下野短歌』は戦時下の統制により、4月号で休刊した。戦禍を避けて、岡山県笠岡町へ疎開し、そこで短歌の指導などに当たる。
昭和21年 1946年 4月、『下野短歌』を復刊させる。
昭和22年 1947年 疎開生活を終えて、東京都に住む娘明子夫妻の新居に移る。
昭和28年 1953年 9月、岡山・天満屋で書画展を郷里岡山ではじめて行う。
昭和30年 1955年 6月、岡山大学教授大本琢壽版刻による自筆歌集『窓日』を刊行する。
昭和32年 1957年 6月、日本画家川合玉堂が逝去。「野水会」はこの年の追悼展が最後となった。野水会展は戦時中の1回を除いて毎年開催され、15回行われた。
昭和33年 1958年 1月、自筆歌集『窓日第二』(大本琢壽版刻)を刊行。11月、徳川家正、小杉放菴とともに最初の日光市名誉市民に推戴される。
昭和34年 1959年 6月、はじめての歌碑が日光市公会堂前に建立される。(のち、日光山内二荒山神社境内に移す)
昭和37年 1961年 11月、日本画家奥村土牛、小倉遊亀、酒井三良の賛助を得て、弟清水三渓と「有山会」を創設し、第1回展を開く。
昭和41年 1966年 1月、宮中歌会始の儀に召人となる。御題は「声」、詠進歌は「ほのぼのとむらさきにほふあさぼらけうぐひすのこゑやまよりきこゆ」。11月、東京学芸大学における全国大学書道学会で「書の歩み」と題して講演。
昭和43年 1968年 1月、歌誌『下野短歌』は全国的発展に伴い、『窓日』と改題し、比庵は主宰となる。10月、岡山県高梁市の臥牛山鞴峠に歌碑が建立される。
昭和44年 1969年 2月、随筆集『紅をもて』を刊行。4月、『週刊朝日』に「いま良寛、清水比庵八十六歳の青春」の記事が掲載、これにより「いま良寛」と呼ばれる。
昭和46年 1971年

9月、高梁市名誉市民に推戴される。その記念の歌碑を高梁市松連寺に建立。

昭和48年 1973年 10月、自選歌集『比庵晴れ』刊行。本第9回造本装幀コンクールで日本造本工業協会長賞を得た。
昭和49年 1974年 10月6日、窓日短歌会創立45周年を記念して、東京調布市の深大寺に歌碑建立。
昭和50年 1975年

2月、日本短歌雑誌連盟から優良歌誌として表彰される。10月24日、満92歳8カ月で死去。