高梁市歴史美術館:収蔵品の特徴
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備中松山藩関係資料
高梁は江戸時代を通じて備中松山と呼ばれ、小堀正次、政一(まさかず 遠州)父子に治められたのを始めとして、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と主に譜代大名の領地でした。その中でも板倉氏は7代124年間この地を支配し、特に幕末維新期の動向は注目されます。
藩の関係資料は、市内の八重籬神社(やえがきじんじゃ 現高梁市内山下)に部分的に残されていたものを中心としています。同神社は、1793(寛政5)年、板倉勝政が始祖板倉勝重(江戸時代初期の京都所司代)を祭り、建立した神社です。資料の中には板倉氏関係資料を始め、水谷時代のものもわずかですが含まれるほか、明治維新後、旧藩関係者から奉納されたものも多くみられます。
宝剣拵
「宝剣拵」は1683(天和3)年、水谷勝宗(みずのや かつむね)によって行われた備中松山城の大修築が完成したのを機に、天守最上階にある御社壇に奉納された宝剣の拵(こしらえ)です。以後、中身の宝剣と共に、歴代藩主に継承されました。(岡山県指定重要文化財)
日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足
「日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足」(ひのまるきんぱくおしこんいとおどしにまいどうぐそく)は八重籬神社の祭神板倉勝重の召領具足として伝来したものです。具足の大部分を金箔で押し、胴の中央には朱の日の丸を描かれています。面頬(めんほお)、脛当(すねあて)は朱塗りで、兜は全体を山鳥の羽根で覆い、後立も羽根を利用した奇抜な形状をもっています。また、「八重籬大権現様御召領御具足記」と題された具足改を記した附(つけたり)文書も残されています。(岡山県指定重要文化財)
赤黒片身替白糸威二枚胴具足
「赤黒片身替白糸威二枚胴具足」(あかくろかたみかわりしろいとおどしにまいどうぐそく)は板倉勝重の長男重宗(しげむね 江戸時代初期の京都所司代)の具足として伝わったものである。胴を赤と黒の2色で塗り分け、それを威した白糸の合わせて3色を基調とした具足です。特に兜は蒙古鉢(もうこばち)と呼ばれる形状で、鉄錆地(てつさびぢ)の鉢全体に雲龍の銀象眼(ぎんぞうがん)が施してあります。籠手には板倉氏の家紋九曜巴(くようどもえ)が刺繍されています。(岡山県指定重要文化財)
板倉勝静像
「板倉勝静像」は備中松山藩の最後の藩主で、老中首座でもあった板倉勝静(いたくらかつきよ)の肖像画です。作者は洋画家として知られる平木政次(ひらき まさつぐ)です。平木の父は備中松山藩士であり、その関係から平木は勝静のほか、板倉勝弼(かつすけ)、山田方谷(ほうこく)、三島中洲(ちゅうしゅう)、川田甕江(おうこう)といった備中松山藩ゆかりの人々の肖像画を残しています。この作品は、明治維新後、神社へ納められたと考えられています。このほかにも板倉勝静、三島中洲、川田甕江の書跡、板倉勝静遺品などが残されています。
清水比庵作品
清水比庵(しみず ひあん)は1883(明治16)年、岡山県上房郡高梁町(現高梁市)に生まれました。はじめは実業界で活躍し、栃木県日光町(現日光市)の町長に就任しましたが、この頃から「歌人町長」として知られていました。町長を辞した後、短歌、書、画の三芸に没頭し、それぞれに独自の境地を開きました。その姿は「今良寛」とも呼ばれ親しまれました。和歌では1966(昭和41)年、宮中歌会始の召人に選ばれ、御題「声」の一首「ほのぼのとむらさきにほふあさぼらけうぐひすのこゑやまよりきこゆ」を献じました。後に高梁市名誉市民にも推戴されています。1975(昭和50)年92歳で永眠しました。
比庵作品のコレクションは大部分が遺族からの寄贈によるもので、作品250点、遺品等は約600点を収蔵しています。書画作品のほか、陶器への絵付け、帯染め付けを行った作品など、その制作意欲は多方にわたっていたことを示す作品も含まれます。この中から主なものを紹介します。
富士山
「富士山]」は最晩年に制作された作品で、富士は比庵が好んで描いた画題の一つです。比庵の絵画の特徴は画面に独特の書体で自作の短歌を賛として書き入れ、歌書画が一体となっていることです。典型的な作例です。
その他の作品
寄託品を含め、高梁ゆかりの画家として前田吉彦、平木政次、藤彦衛門(ふじ ひこえ)をはじめとした洋画家の作品、間野凸渓(まの とっけい)、白神澹庵(しらが たんあん)、小倉魚禾(おぐら ぎょか)などの日本画家の作品のほか、幕末維新期に活躍した佐藤一斎、山田方谷、三島中洲、川田甕江、進鴻渓、鎌田玄渓といった文人の書跡、遺品などを主な収蔵品としています。