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地名をあるく 89.落合町阿部

ページID:0012172 印刷用ページを表示する 掲載日:2014年4月26日更新

 「阿部」は、高梁市落合町の大字地名で、昭和二九年高梁市の大字になりました。古くは川上郡近似郷(室町時代)阿部村でした。高梁川と支流の成羽川の合流地点にあって、「あい」とか「あえ」などと呼ばれていて、「阿恵」・「相」・「合」などと書かれ、いずれも「落合」の意味を表す地域名なのです。


 「阿部」という地名は、中世の戦国時代のものを慶長〜寛永の頃(一五九六〜一六四三)に書写したといわれる「成羽八幡神社旧記」(「県古文書集」)に「阿部牢人の井上新九郎を討ち取った功として、阿部庄内田七郎左衛門尉の跡職を渡辺甚兵衛が新給として宛行われている」ことが天文一三年(一五四四)三月のこととして、三村家親宛行状として記録が残っています。


 また天正三年(一五七五)頃の「備中兵乱記」にも「毛利勢が陣地を白地(福地)へ移し、阿部・西の野(松原)の麦を残らず薙いだ」とあって、「阿部」の地名がみえています。


 また天正六年(一五七八)尼子の武将山中鹿介が、毛利輝元がいる松山城へ護送される途中、毛利の家臣天野元明によって、「阿井の渡」で殺されたといわれる場所に、正徳三年(一七一三)銘の墓碑が残っています(現在、河川改修により西側に移されている)。江戸時代になると毛利の支配から幕府領、そうして成羽藩領、松山藩領、幕府領、松山藩領と支配が移り変わり明治を迎えています。


 「正保郷帳」(一六四五〜四六)では、石高七二六石余となっていて、松山藩領分では唯一の穀倉地帯でし
た。


 「阿井の渡」の対岸には、松山東村の青木の番所(落合橋東詰)があった場所で、そこから渡し船で渡ると川湊(「阿井の渡」)があって、成羽往来が阿部市場から成羽藩との境の境谷へと通っていました。「阿部」は古くからの交通の要地だった
のです。また、成羽川の河川交通も盛んで枝村だった小瀬や対岸の神崎には川湊があって、高瀬舟の船頭や問屋が多く、昭和の初めまで残っていました。


 「阿部」は三つの地区に分けることができます。国道三一三号から北側の緩斜面と井谷川より西の成羽川に沿った地域、そして国道より南の成羽川の氾濫原(阿部段丘面)に分けることができます。国道より南の平地は、以前から成羽川の河道だっ
たところで、水田が多く穀倉地帯になっていましたが、現在では商工業地区として発展しています。


 成羽川が洪水のたびに流れを変え、享保六年や昭和九年の洪水は大変だったといわれ、最近の昭和四七年の洪水では、新成羽川ダムの放流と重なり「阿部」付近の被害は大きく小瀬橋や神崎橋が流されています。成羽川下流にあたる「阿部」の東の地形は低く、市場地区は洪水被害が特にひどく、古くには成羽川が国道側を流れ、現在の山中鹿介の墓碑付近で、高梁川と合流していたのです(「阿部遺跡発掘調査資料」)。


 江戸時代享保六年(一七二一)の大洪水の時には、「江国掃部略日記」(「吉備津神社文書」及び「吉備地方史の研究」=藤井駿)によると、「古今聞きも及ばぬ洪水前代未聞の事」とあり、「高梁川よりは成羽川の水多く、阿部村付近の成羽川の異常増水も激しかった」と、そして阿部村では、「藤井加右門の屋敷浸水、門長屋が流された」と記録され、以前からたびたび洪水に悩まされ川沿いの家が流失したり、軒まで水が来ることが多かったと伝えられています。


 西の才原には、「正和二年(一三一三)一一月日、敬白勧進沙弥総蓮」と刻した花崗岩製の延命地蔵石仏があり、岡山県では二番目に古い県指定の文化財となっている貴重なものです。また、井谷川をさかのぼったところには、阿部深山城跡があり、付近には花山院御幸の伝説が残っていたり、備中兵乱で三村元親が隠れていたという、観音信仰の山である阿部深山があります。市場には御崎神社、山中鹿介の位牌を祭る観泉寺(曹洞宗)などがあります。


 「阿部」という地名は、川の合流地点とか、かつての川の跡などの氾濫原の低湿地を表す地名で、あ(水)べ(辺)から生まれた自然地名なのです。
(文・松前俊洋さん)