ページの先頭です。 本文へ
現在地 トップページ > 広報たかはし > 地名をあるく 70.建丁

地名をあるく 70.建丁

ページID:0008040 印刷用ページを表示する 掲載日:2012年2月1日更新

 近世の松山城下町時代に「建丁」と呼ばれていた町がありました。それは、柿木丁(現 城見通り)と西の鍜冶町の間に平行して南北に通る細い竪町通りの一つでした。「建丁」は、正善寺の南から東西に通る横町の「荒神丁」の通りと荒神社のある場所で交わっていました。「建丁」も「荒神丁」(拙稿「地名さんぽ」「荒神町」参照)と同じく、池田氏の頃(一六一七~四一)に取り立てられたといわれる城下町時代の家中屋敷町の一つで、後になって石川総慶が正徳元年(一七一一)頃、山城国の淀から入封して下級武士の居住地にしたものです。藩主の水谷氏時代の「建丁」は「荒神町」に交わる町だったために「荒神町横町」と呼ばれていたようで、元禄七年(一六九四)正月改めとして「水谷史」=「御家内之記」(市図書館)に「荒神町横町一丁二十九間・家数五十一軒(?)一軒給人(地方知行をあたえられた者)」と記録されています。

 また、石川氏時代の「松山城下絵図㊢」(市図書館)には、町の西側に六、東側に二と明屋敷二が書かれています。また、延享元年(一七四四)の「松山家中屋敷覚」(市図書館)には、「建丁」のことを「中小姓町」(主君に近侍として雑用をつとめた武士の町)と書いて、家中屋敷七、給人屋敷一をあげています。その後、板倉氏入国後「建丁」と町名が変更されています。嘉永二・三年頃(一八四九~五〇頃)より安政初年頃(一八五四頃)の「昔夢一班」には、五軒の世帯があったことが書かれています。

 その後、明治初年頃(一八六八頃)に「建丁」は「荒神町」の一部となり、「建丁」の町名はなくなって「荒神町」となっています。

 「荒神町」は柿木町の南結(間之町北結)から西の鍛冶町へ通じる東西の町通り(小路)で、江戸時代から備中松山城下町の町割りの一つ、下家中屋敷町でした。「水谷史」=「御家内之記」によると、「元禄七年正月戊正月改め」の中に「長さ四八間五尺、家数五軒、東に三軒」と書かれ、また石川時代の「松山城下絵図㊢」には、柿木丁(現・城見通り)に接する東側の角に同心長屋(のち同心丁に移る)が…、町筋の北側に寺院や荒神社が描かれ、家数も元禄頃と同じになっています。後の延享元年の「松山家中屋敷覚」には、荒神町の家中屋敷も増えて一三軒、給人屋敷一軒、また、幕末の「昔夢一班」には、北側に三軒と南側に八軒の家中屋敷があり、荒神社も記録されていて、竪町型の「建丁」に比べて横町型の武家町になっていて、武家屋敷も多かったことが分かり、町筋にも当時の面影が残っています。今の荒神社は天保一〇年(一八三九)の大火で焼けた直後に再建されたらしく、天保一〇年の棟札が残っています。

 現在では「建丁」の町の面影もうすれ、「荒神町」の地名が残るのみになって、近世の「建丁」は消えた町の一つになったのです。

 「建丁」という地名の由来は、当時の大通りであった武家町の「柿木丁」通りと町人町の「鍛冶町」通りに平行してできた街
区、「従町」の意味からつけられた町名なのです。
(文・松前俊洋さん)