年 号 | 西 暦 | 城 主 | 関係事項 |
承久3年 | 1221 | 相模国(現:神奈川県)三浦一族の秋庭重信が承久の乱の戦功により、備中国有漢郷(現:高梁市有漢町)の地頭になる。 | |
延応2年 | 1240 | 秋庭重信 あきばしげのぶ |
秋庭重信が大松山に築城。備中松山城のはじまり。 |
秋庭信村 あきばのぶむら |
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秋庭重連 あきばしげつら |
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秋庭重継 あきばしげつぐ |
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秋庭重知 あきばしげとも |
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元弘年間 | 1331~1333 | 高橋宗康 たかはしむねやす |
大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟の大五郎が在城。この頃に地名を「高橋」から「松山」に改める。 |
文和4年 | 1355 | 高師秀 こうのもろひで |
高師秀が備中松山城に入城する。 |
貞治元年 | 1362 | 秋庭重明 あきばしげあき |
高師秀が備前徳倉城に退き、秋庭重明が備中松山城主となる。 |
秋庭頼重 あきばよりしげ |
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秋庭頼次 あきばよりつぐ |
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秋庭元明 あきばもとあき |
応仁元年(1467)応仁の乱はじまる。山名持豊ら(西軍)、細川勝元ら(東軍)。 元明は東軍について戦う。 |
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秋庭元重 あきばもとしげ |
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永正年間 | 1504ごろ | 上野頼久 うえのよりひさ |
このころ、上野頼久が備中松山城主となる。 |
永正2年 | 1505 | 頼久、備中松山城下の天忠山安国寺を再興する。 | |
上野頼氏 うえのよりうじ |
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天文2年 | 1533 | 庄為資 しょうためすけ |
猿掛城(現:小田郡矢掛町)主の庄為資が備中松山城を攻め、上野頼氏を自刃に追い込む。 |
庄高資 しょうたかすけ |
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永禄4年 | 1561 | 三村家親 みむらいえちか |
永禄2年(1559)から鶴首城(現:高梁市成羽町)主の三村家親が毛利氏の小早川隆景の加勢で、 備中松山城を攻め、城主庄高資と尼子氏加番の吉田義辰を追い払う。 |
永禄9年 | 1566 | 三村元親 みむらもとちか |
家親が美作国興禅寺にて、沼城(現:岡山市沼)主の宇喜多直家の刺客に鉄砲で狙撃され死去。 |
永禄10年 | 1567 | 庄高資 しょうたかすけ |
元親が父の仇討ちとして、沼城の宇喜多直家を攻めるが大敗(明善寺合戦)。 庄高資が宇喜多氏の加勢を得て、備中松山城を一時奪回する。 |
元亀2年 | 1571 | 三村元親 みむらもとちか |
三村元親が毛利元清の加勢によって備中松山城を奪回し、備中中・北部を支配。 |
天正2年 | 1574 | 毛利氏が宇喜多氏と和睦したことで、毛利氏から離反し、織田信長と結ぶ。毛利・宇喜多両軍の追討を受け、 備中松山城に籠城する(備中兵乱)。 |
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天正3年 | 1575 | 毛利輝元 もうりてるもと |
備中松山城落城。元親、松連寺(当時は現:高梁市奥万田町)で自害。 |
天正6年 | 1578 | 尼子の家臣山中鹿介(しかのすけ‐本名:幸盛)、播州上月城から護送の途中、阿井の渡し(現:高梁市落合町阿部)にて殺害される。 | |
天正8年 | 1580 | 毛利輝元、備中松山城普請を指示した後、入城する。 | |
慶長5年 | 1600 | 小堀正次 こぼりまさつぐ |
関ヶ原の戦いが起こる。西軍の総大将であった毛利輝元は敗北し、領地を周防国、長門国に削減される。代わって、 備中国奉行として小堀正次が備中松山城を預かる。 |
慶長9年 | 1604 | 小堀政一 こぼりまさかず |
小堀政一(遠州)、父正次の急死により、家督を継ぐ。 |
慶長13年 | 1613 | 遠州、備中松山城および御根小屋の修築を行う。 | |
元和2年 | 1616 | 城下に新町、本町を取り立てる。 | |
元和3年 | 1617 | 池田長幸 いけだながゆき |
遠州、河内国奉行として転出。 池田長幸、因幡鳥取から6万5千石で備中松山へ移る。 |
元和4年 | 1618 | 城下に下町、鍛冶町を取り立てる。 | |
寛永9年 | 1632 | 池田長常 いけだながつね |
長常、父長幸の死により家督を継ぐ。 |
寛永18年 | 1641 | 水野勝俊 みずのかつとし |
長常が死去。無嗣断絶となる。 備後福山藩主水野勝俊が一時城地を預かる。 |
寛永19年 | 1642 | 水谷勝隆 みずのやかつたか |
水谷勝隆が備中成羽から5万石で移る。 |
寛文4年 | 1664 | 水谷勝宗 みずのやかつむね |
勝宗が父勝隆の死により家督を継ぐ。 |
寛文10年 | 1670 | 城下に南町を取り立て、初めて牛市が開かれる。 | |
天和元年 | 1680 | 備中松山城と御根小屋の大修築が始まる(天和3年:1683年完成) | |
貞享3年 | 1686 | 城下に東町を取り立てる。城下町が完成。 | |
元禄2年 | 1689 | 水谷勝美 みずのやかつよし |
勝美が父勝宗の死により、家督を継ぐ。 |
元禄6年 | 1693 | 勝美が死去。無嗣断絶となる。 | |
元禄7年 | 1694 | 浅野長矩 あさのながのり |
播州赤穂藩主浅野長矩が一時城地を預かる。 |
元禄8年 | 1695 | 安藤重博 あんどうしげひろ |
安藤重博が上野高崎から6万5千石で備中松山へ移る。 |
元禄11年 | 1698 | 安藤信友 あんどうのぶとも |
信友が父重博の死により、家督を継ぐ。 |
正徳元年 | 1711 | 石川総慶 いしかわふさよし |
信友が美濃加納(現:岐阜市内)へ移り、代わって石川総慶が6万石で備中松山へ移る。 |
延享元年 | 1744 | 板倉勝澄 いたくらかつずみ |
総慶が伊勢亀山(現:三重県亀山市)へ移り、板倉勝澄が伊勢亀山から5万石で備中松山へ移る。 |
寛延4年 | 1751 | 板倉勝武 いたくらかつたけ |
勝武が父勝澄の死により、家督を継ぐ。 城下の鉄砲町から出火し、新町、南町、東町の190軒が焼失。 |
明和5年 | 1768 | 城下の間之町・同心町から出荷し、柿木町、荒神町、伊賀町の88軒が焼失。 | |
明和6年 | 1769 | 板倉勝従 いたくらかつより |
勝従が兄勝武の死により、家督を継ぐ。 |
安永7年 | 1778 | 板倉勝政 いたくらかつまさ |
勝政が兄勝従の死により、家督を継ぐ。 |
寛政5年 | 1793 | 御根小屋馬場に八重籬神社を創建。祭神は始祖板倉勝重。(1830年に現在地に移転) | |
享和元年 | 1801 | 板倉勝● いたくらかつあき |
勝●が父勝政の隠居により、家督を継ぐ。(●は俊の人べんが日へん) |
文化元年 | 1804 | 板倉勝職 いたくらかつつね |
勝職が父勝●の死により、家督を継ぐ。(●は俊の人べんが日へん) |
天保2年 | 1831 | 城下の鷹匠町から出火し、新町、本町、紺屋町、大工町の292軒と家中屋敷78軒が焼失。 | |
天保10年 | 1839 | 城下の間之町から出火し、家中屋敷260軒、町家360軒が焼失。 | |
嘉永2年 | 1849 | 板倉勝静 いたくらかつきよ |
勝静が養父勝職の隠居により、家督を継ぐ。 漢学者山田方谷を登用し、藩政改革を行う。 |
安政4年 | 1857 | 臥牛山内に切通の番所を設け、城の整備を行う。 | |
元治元年 | 1864 | 第1次長州征討が起こる。勝静は広島へ出陣。山田方谷は約1,200名の農兵隊に国境を守らせ、 自らは頼久寺に入る。 |
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慶応2年 | 1866 | 倉敷浅尾騒動が起こる。山田方谷、野中野丈、野村新兵衛らを野山、日羽、総社に向かわせる。 | |
慶応4年 | 1868 | 池田茂政・章政 いけだもちまさ あきまさ |
岡山藩主池田茂政が明治新政府の命により、松山征討を行う。備中松山藩は恭順し、備中松山城は 無血開城となり、備前岡山藩の支配となる。 |
明治2年 | 1869 | 板倉勝弼 いたくらかつすけ |
勝弼が高梁藩として再興し、2万石を領する。 |
明治4年 | 1871 | 廃藩置県。 | |
明治5年 | 1872 | 備中松山城が陸軍省の所管となる。 | |
明治6年 | 1873 | 太政官公達により廃城となり、大蔵省に移管。 | |
明治14年 | 1881 | 農商務省へ移管され、のちに農林省に移管。 | |
明治33年 | 1900 | 御根小屋跡地に岡山県立高梁中学校を建設。 | |
昭和3年 | 1928 | 高梁町によって二重櫓の修理が竣工。 | |
昭和5年 | 1930 | 高梁中学校の教諭信野友春氏によって『備中松山城及其城下』が刊行。 | |
昭和12年 | 1937 | 備中松山城の復旧を支援するため、高梁保勝会が結成。 | |
昭和14年 | 1939 | 高梁町が町費1万8千余円を投入して天守の解体修理と土塀の補修に着手。15年竣工。<昭和の大改修> | |
昭和16年 | 1941 | 天守・二重櫓・三ノ平櫓東土塀が国宝(のちに重要文化財)に指定。 | |
昭和31年 | 1956 | 下太鼓の丸跡・中太鼓櫓跡・小松山城跡・相畑城戸跡・天神の丸跡・大松山城跡・大池・切通及び番所跡が史跡に指定。 | |
昭和32年 | 1957 | 天守の部分修理、二重櫓・三の平櫓東土塀の解体修理に着手。35年に竣工。<昭和の大改修> | |
平成4年 | 1992 | 史跡備中松山城跡保護管理計画策定 | |
平成5年 | 1993 | 史跡備中松山城跡環境整備基本計画策定 | |
平成6年 | 1994 | 本丸の復原に着手。(9年に竣工) | |
平成12年 | 2000 | 天守・二重櫓の部分修理に着手(14年に竣工)<平成の大改修> | |
平成14年 | 2002 | 石垣総合調査に着手(15年に完了) | |
平成30年 | 2018 | さんじゅーろーが猫城主に就任 |