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備中松山城略史

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年6月25日更新

 

備中松山城 歴史年表

年 号 西  暦 城  主 関係事項
承久3年 1221   相模国(現:神奈川県)三浦一族の秋庭重信が承久の乱の戦功により、備中国有漢郷(現:高梁市有漢町)の地頭になる。
延応2年 1240 秋庭重信
あきばしげのぶ
秋庭重信が大松山に築城。備中松山城のはじまり。
    秋庭信村
あきばのぶむら
 
    秋庭重連
あきばしげつら
 
    秋庭重継
あきばしげつぐ
 
    秋庭重知
あきばしげとも
 
元弘年間 1331~1333 高橋宗康
たかはしむねやす
大松山に高橋九郎左衛門宗康、小松山に弟の大五郎が在城。この頃に地名を「高橋」から「松山」に改める。
文和4年 1355 高師秀
こうのもろひで
高師秀が備中松山城に入城する。
貞治元年 1362 秋庭重明
あきばしげあき
高師秀が備前徳倉城に退き、秋庭重明が備中松山城主となる。
    秋庭頼重
あきばよりしげ
 
    秋庭頼次
あきばよりつぐ
 
    秋庭元明
あきばもとあき
応仁元年(1467)応仁の乱はじまる。山名持豊ら(西軍)、細川勝元ら(東軍)。
元明は東軍について戦う。
    秋庭元重
あきばもとしげ
 
永正年間 1504ごろ 上野頼久
うえのよりひさ
このころ、上野頼久が備中松山城主となる。
永正2年 1505   頼久、備中松山城下の天忠山安国寺を再興する。
    上野頼氏
うえのよりうじ
 
天文2年 1533 庄為資
しょうためすけ
猿掛城(現:小田郡矢掛町)主の庄為資が備中松山城を攻め、上野頼氏を自刃に追い込む。
    庄高資
しょうたかすけ
 
永禄4年 1561 三村家親
みむらいえちか
永禄2年(1559)から鶴首城(現:高梁市成羽町)主の三村家親が毛利氏の小早川隆景の加勢で、
備中松山城を攻め、城主庄高資と尼子氏加番の吉田義辰を追い払う。
永禄9年 1566 三村元親
みむらもとちか
家親が美作国興禅寺にて、沼城(現:岡山市沼)主の宇喜多直家の刺客に鉄砲で狙撃され死去。
永禄10年 1567 庄高資
しょうたかすけ
元親が父の仇討ちとして、沼城の宇喜多直家を攻めるが大敗(明善寺合戦)。
庄高資が宇喜多氏の加勢を得て、備中松山城を一時奪回する。
元亀2年 1571 三村元親
みむらもとちか
三村元親が毛利元清の加勢によって備中松山城を奪回し、備中中・北部を支配。
天正2年 1574   毛利氏が宇喜多氏と和睦したことで、毛利氏から離反し、織田信長と結ぶ。毛利・宇喜多両軍の追討を受け、
備中松山城に籠城する(備中兵乱)。
天正3年 1575 毛利輝元
もうりてるもと
備中松山城落城。元親、松連寺(当時は現:高梁市奥万田)で自害。
天正6年 1578   尼子の家臣山中鹿介(しかのすけ‐本名:幸盛)、播磨上月城から護送の途中、阿井の渡し(現:高梁市落合町阿部)にて殺害される。
天正8年 1580   毛利輝元、備中松山城普請を指示した後、入城する。
慶長5年 1600 小堀正次
こぼりまさつぐ
関ヶ原の戦いが起こる。西軍の総大将であった毛利輝元は敗北し、領地を周防国、長門国に削減される。代わって、
備中国奉行として小堀正次が備中松山城を預かる。
慶長9年 1604 小堀政一
こぼりまさかず
小堀政一(遠州)、父正次の急死により、家督を継ぐ。
慶長13年 1613   遠州、備中松山城および御根小屋の修築を行う。
元和2年 1616   城下に新町、本町を取り立てる。
元和3年 1617 池田長幸
いけだながゆき
遠州、河内国奉行として転出。
池田長幸、因幡鳥取から6万5千石で備中松山へ移る。
元和4年 1618   城下に下町、鍛冶町を取り立てる。
寛永9年 1632 池田長常
いけだながつね
長常、父長幸の死により家督を継ぐ。
寛永18年 1641 水野勝俊
みずのかつとし
長常が死去。無嗣断絶となる。
備後福山藩主水野勝俊が一時城地を預かる。
寛永19年 1642 水谷勝隆
みずのやかつたか
水谷勝隆が備中成羽から5万石で移る。
寛文4年 1664 水谷勝宗
みずのやかつむね
勝宗が父勝隆の死により家督を継ぐ。
寛文10年 1670   城下に南町を取り立て、初めて牛市が開かれる。
天和元年 1680   備中松山城と御根小屋の大修築が始まる(天和3年:1683年完成)
貞享3年 1686   城下に東町を取り立てる。城下町が完成。
元禄2年 1689 水谷勝美
みずのやかつよし
勝美が父勝宗の死により、家督を継ぐ。
元禄6年 1693   勝美が死去。無嗣断絶となる。
元禄7年 1694 浅野長矩
あさのながのり
播磨赤穂藩主浅野長矩が一時城地を預かる。
元禄8年 1695 安藤重博
あんどうしげひろ
安藤重博が上野高崎から6万5千石で備中松山へ移る。
元禄11年 1698 安藤信友
あんどうのぶとも
信友が父重博の死により、家督を継ぐ。
正徳元年 1711 石川総慶
いしかわふさよし
信友が美濃加納(現:岐阜市内)へ移り、代わって石川総慶が6万石で備中松山へ移る。
延享元年 1744 板倉勝澄
いたくらかつずみ
総慶が伊勢亀山(現:三重県亀山市)へ移り、板倉勝澄が伊勢亀山から5万石で備中松山へ移る。
寛延4年 1751 板倉勝武
いたくらかつたけ
勝武が父勝澄の死により、家督を継ぐ。
城下の鉄砲町から出火し、新町、南町、東町の190軒が焼失。
明和5年 1768   城下の間之町・同心町から出荷し、柿木町、荒神町、伊賀町の88軒が焼失。
明和6年 1769 板倉勝従
いたくらかつより
勝従が兄勝武の死により、家督を継ぐ。
安永7年 1778 板倉勝政
いたくらかつまさ
勝政が兄勝従の死により、家督を継ぐ。
寛政5年 1793   御根小屋馬場に八重籬神社を創建。祭神は始祖板倉勝重。(1830年に現在地に移転)
享和元年 1801 板倉勝●
いたくらかつあき
勝●が父勝政の隠居により、家督を継ぐ。(●は俊の人べんが日へん)
文化元年 1804 板倉勝職
いたくらかつつね
勝職が父勝●の死により、家督を継ぐ。(●は俊の人べんが日へん)
天保2年 1831   城下の鷹匠町から出火し、新町、本町、紺屋町、大工町の292軒と家中屋敷78軒が焼失。
天保10年 1839   城下の間之町から出火し、家中屋敷260軒、町家360軒が焼失。
嘉永2年 1849 板倉勝静
いたくらかつきよ
勝静が養父勝職の隠居により、家督を継ぐ。
漢学者山田方谷を登用し、藩政改革を行う。
安政4年 1857   臥牛山内に切通の番所を設け、城の整備を行う。
元治元年 1864   第1次長州征討が起こる。勝静は広島へ出陣。山田方谷は約1,200名の農兵隊に国境を守らせ、
自らは頼久寺に入る。
慶応2年 1866   倉敷浅尾騒動が起こる。山田方谷、野中野丈、野村新兵衛らを野山、日羽、総社に向かわせる。
慶応4年 1868 池田茂政・章政
いけだもちまさ
あきまさ
岡山藩主池田茂政が明治新政府の命により、松山征討を行う。備中松山藩は恭順し、備中松山城は
無血開城となり、備前岡山藩の支配となる。
明治2年 1869 板倉勝弼
いたくらかつすけ
勝弼が高梁藩として再興し、2万石を領する。
明治4年 1871   廃藩置県。
明治5年 1872   備中松山城が陸軍省の所管となる。
明治6年 1873   太政官公達により廃城となり、大蔵省に移管。
明治14年 1881   農商務省へ移管され、のちに農林省に移管。
明治33年 1900   御根小屋跡地に岡山県立高梁中学校を建設。
昭和3年 1928   高梁町によって二重櫓の修理が竣工。
昭和5年 1930   高梁中学校の教諭信野友春氏によって『備中松山城及其城下』が刊行。
昭和12年 1937   備中松山城の復旧を支援するため、高梁保勝会が結成。
昭和14年 1939   高梁町が町費1万8千余円を投入して天守の解体修理と土塀の補修に着手。15年竣工。<昭和の大改修>
昭和16年 1941   天守・二重櫓・三ノ平櫓東土塀が国宝(のちに重要文化財)に指定。
昭和31年 1956   下太鼓の丸跡・中太鼓櫓跡・小松山城跡・相畑城戸跡・天神の丸跡・大松山城跡・大池・切通及び番所跡が史跡に指定。
昭和32年 1957   天守の部分修理、二重櫓・三の平櫓東土塀の解体修理に着手。35年に竣工。<昭和の大改修>
平成4年 1992   史跡備中松山城跡保護管理計画策定
平成5年 1993   史跡備中松山城跡環境整備基本計画策定
平成6年 1994   本丸の復原に着手。(9年に竣工)
平成12年 2000   天守・二重櫓の部分修理に着手(14年に竣工)<平成の大改修>
平成14年 2002   石垣総合調査に着手(15年に完了)