備中松山城は、市街地の北側にそびえ、大松山・天神の丸・小松山・前山の4つの峰からなる臥牛山に築かれた山城です。史跡に指定されているのは、城内の8ヵ所の遺構で、北から「切通及び番所跡」「大池」「大松山城跡」「天神の丸跡」「相畑城戸跡」「小松山城跡」「中太鼓櫓跡」「下太鼓の丸跡」であり、曲輪(くるわ)や堀切(ほりきり)などが明瞭に残っています。また小松山城跡を中心とした近世城郭には、石垣をはじめ櫓跡の礎石などをみることができます。
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臥牛山の北端にあたっている部分で、北からの防備のための番所と切通で、幕末の動乱期に設置されたと言われています。切通は臥牛山と東隣の佐与谷山の境界に設けられており、曲線を描いた石垣が特徴です。
かつては「血の池」とも呼ばれており、刀を洗った池という言い伝えも残っています。
池が石垣で囲まれた珍しい池で、江戸時代の絵図には池に屋根がつけられており、船が浮かべられたものもあります。山城で貴重な水場であったとも考えられています。
臥牛山で最初にお城が築かれた場所です。中世の城郭としては大規模なもので、鎌倉時代から戦国時代にかけて使用されたお城です。曲輪が7段にわたって築かれており、堀切もみられます。直径の太い樹木がみられるのも特徴です。
臥牛山の最高峰(標高480m)に築かれた中世の城郭です。本丸と出丸が大規模な堀切によって隔絶されています。備中一円で起こった備中兵乱(1574~75)において、備中松山城で最初に陥落したお城です。本丸の一段高い部分には江戸時代を通じて「天神社」と呼ばれる神社が設けられており、城主の信仰を受けていたと考えられています。発掘調査によって検出した神社の遺構を整備し、見学していただけるようにしています。
天神の丸から南へ派生する尾根上に位置し、小松山城跡と天神の丸跡のほぼ中央にあたります。ここも備中兵乱において戦場となったところです。昭和30年代までここには人家があったと言われており、人家に伴う石垣なども見られますが、遺構としては石積みや井戸、土塁などが残っています。城内で土塁が確認できるのはここだけです。
天守などが残る備中松山城における近世城郭の中核です。中世城郭を近世城郭に改造しており、中世城郭の面影をみることはできませんが、備中兵乱で戦勝した毛利氏によって近世城郭として改修されはじめ、最終的には1683年に水谷勝宗が現在の形にしたと言われています。数度にわたり改修されており、さまざまな石垣の積み上げをみることができます。
近世になって造られた櫓台で、高い石垣が特徴です。絵図には「上太鼓櫓」と書かれているものもあります。下太鼓の丸跡とともに太鼓の音の中継基地として利用されたと考えられています。中太鼓櫓跡から城下町を一望することができます。また下太鼓の丸跡も見ることができます。
ふいご峠駐車場の南に位置する前山に築かれており、下太鼓櫓台をはじめ、数段にわたる曲輪が石垣で築かれています。戦国時代にはおそらく物見の最前線であったのではないかと考えられます。江戸時代になってから現在の形に改修されており、麓の御根小屋からの太鼓の音を中太鼓櫓へ中継する基地としての機能があったと考えられます。現在、発掘調査によって検出した遺構を見学していただけるように整備を行っています。