アクセスに詳しくは書いておりますが、車で行くことはできるのはふいご峠駐車場(臥牛山の5合目)までです。
ここから約20分歩いていただきますと、天守に到着します。
ヒールのある靴や革靴でお城に行くことはお薦めしません。
駐車場から20分程度、山道を歩いていただかないといけません。道中、石が転がっているなど、足元の悪いところもありますので、ヒールのある靴や革靴ではなく、運動靴や登山靴など歩きやすい靴でお越しいただきたいと思います。
大変申し訳ございません。お城への道中は山道で階段しか手段がないため、車椅子での登城はできません。
入城料は、本丸に入る際にお支払いいただきます。大人500円、小中学生200円です。
二の丸までは無料で、24時間行くことはできますが、夜間の登城は危険ですので、ご遠慮ください。
備中松山城のある臥牛山の東に位置する山から見ることができます。
高梁市歴史美術館に備中松山城の歴史や復元模型などを展示しています。
現在は高梁市ですが、備中松山城が最初に築かれた中世には、「高橋」と呼ばれていたといわれています。
秋庭氏の次の城主になったのが「高橋宗康」であり、城主の名前と地名が同じ名前であり、地名を呼ぶと城主を呼び捨てになってしまうことから、「高橋」から「松山」へと変えられたといわれています。
「松山」になったのは、当時松がたくさん生えていたことによると考えられます。
それ以後、明治時代になるまで、「松山」と呼ばれますが、伊予(愛媛県)の松山と区別するために、一般的には「備中松山」と呼ばれていたようです。
幕末には備中松山藩主板倉勝静が幕府の老中首座を務めていたこともあり、朝敵として明治時代を迎えます。朝敵であった備中松山藩は、明治新政府から改名を要求され、二つの候補を提出しています。
一つは、城下町の南に位置する高倉山の名前から「高倉」、もう一つは川の名前から「高梁」。「高梁」については、当初は、かつて呼ばれていた「高橋」として考えていたようですが、漢学者が「橋」の字と同じ意味の「梁」を使ったほうが雅であるとしたことから、「高梁」を候補としたといわれています。
二つの候補から、明治新政府によって「高梁」が選ばれ、現在まで「高梁」という地名が使われています。
大変申し訳ございませんが、水攻めされたのは、岡山市に所在しております「備中高松城」です。豊臣秀吉の「中国大返し」でも有名なお城です。
どちらも備中の後ろに四国の地名がついていますし、備中松山城の最寄り駅も「備中高梁駅」と「備中高」までが同じなので、間違えられることが多いです。
もしも「備中松山城」が水攻めされていたとすると、川をせき止めるために備中高松城以上の労力が必要であったことや、現在の城下町がすべて水中に沈んでしまったことが想像できます。
ただし、備中松山城はこの水攻めとまったく関係がないわけではありません。この水攻めの際の和睦によって、備中国は高梁川を境に、東を織田氏の領地、西を毛利氏の領地と決定しました。数年後、豊臣秀吉によってこの和睦が実行にうつされる際に、毛利氏は織田氏との和睦であって、豊臣氏との和睦ではないため、無効であると主張し、高梁川の東にある備中松山城は毛利氏の領地となりました。そのため、関が原の戦いで毛利氏が敗れるまでは、備中松山城は毛利氏の領地でした。