財政破綻寸前、借金数百億円の備中松山藩を立て直すために
方谷は、嘉永3年(1850)に主として中級以上の武士と、豪農・豪商を対象とした倹約令を出しました。
この倹約令は、当時の役人たちの常識であった賄賂や酒馳走を全面的に禁止したものであり、方谷への反発は大きかったが、藩主勝静が、重役会議の席で、「方谷の意見は、私の意見である。方谷に対する悪口は一切許さない」と言明し、方谷の改革を支持しました。
「上下共々質素倹約」というのが基本理念の一つであり、自らの給料を大幅に削減したほか、藩主勝静も改革にあたっては率先して倹約の範を示し、木綿の衣類を着て粗末な食事をしたといいます。
借財の整理について、方谷は、債権者である大坂の両替商(銀主)を一堂に集めて、藩の帳簿を公開し、藩の窮状を説明した上で、堅実な返済計画を示し、了承を取り付けました。
また、方谷は、大坂の蔵屋敷を廃止し、蔵屋敷の維持費を削減するとともに、米相場に応じて藩が直接売買する仕組みに改め、収益を確保するように努めました。
備中松山藩は発行した藩札の兌換準備金にも手をつけ、準備金が底をついていました。
にもかかわらず、大量の藩札を新たに発行したため全く信用はありませんでした。
方谷は、財政再建にあたっては、藩札の信用回復を重視し、期限を定めて藩札を貨幣に交換、藩札を回収しました。
方谷は、回収した藩札と未使用の藩札(総額72億円)を嘉永5年(1852)9月、大観衆の面前で焼却したのでした。
このパフォーマンスは、藩政改革への決意を示す有効な手段となりました。
その後、産業振興により得た巨額の利益を準備金として、新たな藩札「永銭」を三種類発行しました。
この新たな藩札は高い信用を得て、他藩にまで流通するようになり、結果として地域の経済が活性化しました。
嘉永5年(1852)、「撫育方」を新設し、藩内で生産された年貢米以外の生産物を集中管理し、江戸に運び直接販売することで、莫大な利益を藩にもたらしました。
撫育方で取り扱われる生産物は、鉄器・農機具・釘などの鉄製品が中心で、中でも「備中鍬」は全国に普及し、江戸では「鉄釘」が高値で売れたといいます。
この特産品の生産から流通までの一貫管理と江戸での直接販売システムの構築は、地場産業の振興に大きく貢献しました。
◆方谷が鉄製品以外に奨励した生産物
和紙・杉・竹・茶・漆・煙草・柚餅子 など
※撫育方 ・・・ 藩内の事業部門。役所の御収納米以外の一切の収益を管理し、備中松山藩の専売事業を担当しました。
方谷は、嘉永5年(1852)には郡奉行を兼務し、民政の改革にも取り組みました。
彼は、「士民撫育」(すべては藩士や領民のため)を基本方針として貫き、賄賂や賭博の禁止、天災等に備えての貯倉の設置、水陸の交通網の整備や目安箱の設置など、藩士・領民の生活安定に向けた施策を実行しました。
方谷は、庶民教育の重要性を説き、領内に「学問所」や「教諭所」を設置し、教育の振興に努めました。
また、藩校「有終館」や家塾「牛麓舎」で優秀な人材を育成し、藩の要職へも積極的に登用しました。
幕末の激動の中で、藩の存亡の危機を乗り切ったのも、彼の教えを受けた門人たちの働きによるところが大きかったといわれています。
方谷は、弘化4年(1847)に三島中洲とともに、津山藩を訪問し、西洋砲術と銃陣を学びました。
嘉永5年(1852)の郡奉行就任を機に、農民を兵力に率いれる農兵制度を創設しました。
「里正隊」や「農兵隊八大隊」を組織し、大砲等の洋式兵術を導入するとともに、農閑期には洋式銃陣の習練を実施しました。
長州藩の「奇兵隊」のモデルとなったのが、この「里正隊」とも言われています。
◆「里正隊」 ・・・ 庄屋とその子弟、神官の中から若者を選んで構成。帯刀を許し、銃剣を与えて訓練しました。
◆「農兵隊八大隊」 ・・・ 猟師や元気な若者を集めて、農閑期に訓練しました。