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ゆかりの人物

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月4日更新

板倉勝静 (いたくらかつきよ)

 備中松山藩板倉家7代藩主。陸奥白河藩主松平定永の8男。祖父は寛政の改革で有名な松平定信。

 天保13年(1842)、備中松山藩主板倉勝職(かつつね)の養子となり、嘉永2年(1849)に家督を継ぐと、漢学者 山田方谷を登用し、藩政改革を断行しました。

 その後、幕政に関与し、寺社奉行・老中に任命されました。慶応元年(1865)、老中に再任され、翌年一橋慶喜が15代将軍に就任すると、老中首座として将軍を補佐しました。

 同3年(1867)10月14日、大政奉還となり、幕府の終焉を見届けました。

 翌年鳥羽伏見の敗戦を受け、慶喜とともに江戸に帰り、老中を辞任。

 その後、日光・奥州・箱館を流転、明治2年(1869)5月に自訴、安中藩へ永預(えいあずけ)に処せられました。

 同5年(1872)に赦免された後は、上野東照宮祀官を務めました。

三島中洲 (みしまちゅうしゅう)

 備中松山藩士。漢学者。

 窪屋郡中島村(現倉敷市中島)に生まれ、14歳で山田方谷の家塾「牛麓舎」に入門。

 文久元年(1861)、吟味役に就任し、藩政の安定に尽力。鳥羽伏見の敗戦により板倉勝静は朝敵として追悼されましたが、山田方谷らとともに朝廷への助命・板倉家の再興を嘆願し、明治2年(1869)に実現。明治5年(1872)、政府の招請に応じて上京。東京帝国大学教授・東宮侍講・宮中顧問などを歴任。明治10年(1877)に、漢学塾「二松學舍」(現二松學舍大学)を創立しました。

川田甕江 (かわたおうこう)

 備中松山藩士。漢学者。玉島(現倉敷市玉島)に生まれ、藩政改革のため三島中洲により懇願され、出仕。熊田恰が玉島で包囲された際の嘆願書の草案は、川田の作成と言われています。

 勝静は幕府軍参謀として東北の地を流転しましたが、川田の懸命な説得により自訴を決意したと言われています。

 藩再興の際には、勝輔(跡取り候補)を丁稚に仕立て、川田は呉服商人に変装し、備中松山に連れて帰り、また復藩活動の際には、京都に潜入し、朝廷側から情勢を探るなど動乱期の藩を影で支えました。後に文学博士として活躍し、東宮侍講などを務めました。

熊田恰 (くまたあたか)

 備中松山藩士。藩年寄役の家に生まれ、藩校有終館で山田方谷に学びました。

 剣術指南役となり、板倉勝静の護衛役を務め、鳥羽伏見の戦では、勝静の親衛隊長として大坂城周辺警護に従事。敗戦により勝静から帰藩を命じられ、藩兵150余名を率いて、海路で玉島(現倉敷市玉島)まで帰着しましたが、岡山藩兵に包囲されました。

 恰は、藩兵の助命嘆願書を提出し、自刃。藩兵の命と玉島を戦禍から救いました。墓所は、高梁市和田町の道源寺。

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