ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

ゆかりの地

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月4日更新

 山田方谷にゆかりのある地は、市内に数多くあります。

 山田方谷ゆかりの地をめぐり、方谷の足跡に触れてみてはいかがでしょうか。

備中松山城 (高梁市内山下)

 臥牛山の山頂部(標高430m)の所在。天守が現存する全国唯一の山城。

 大手門跡周辺は、10m以上の巨大な岩壁がそびえ、「難攻不落の城」の面影を残す。

 漆喰塗りの白壁と黒い腰板のコントラストが青空に映える美しい天守は必見。

備中松山城

 

八重籬神社 (高梁市内山下)

 備中松山藩主板倉家の祖霊を祀る神社。

 寛政5年(1793)、御根小屋(現高梁高等学校地)に建立されたが、文政13年(1830)に現在地に改築された。

 境内には、方谷をはじめ、旧藩関係者の顕彰碑が建つ。

 

八重籬神社

臥牛亭 (高梁市内山下)

 藩主板倉勝静が、御根小屋の一隅に建てた小亭。

 農耕の神を祀り五穀豊穣を祈願。

 領民の生活に思いを馳せたとされる。

 明治6年(1873)の廃城令後、勝静の遺徳を偲ぶものとして、八重籬神社境内に移築・保存されている。

臥牛亭

 

牛麓舎跡 (高梁市御前町)

 方谷が有終館学頭時代に子弟教育のために最初に設立した家塾で、臥牛山の麓にあることからこの名がついた。

 のちに方谷の改革を支えた三島中洲らを輩出した。

牛麓舎跡

御根小屋跡 (高梁市内山下)

 臥牛山山麓に位置する藩の政庁・御殿屋敷の遺構、現高梁高等学校校地。

 屋敷の地割りは、高さ7mを超える石垣を築き、二段に造成され、上段には城主の居館である御殿を設置。

 明治6年(1873)の廃城令により、御殿・附属建物は解体撤去されたが、総延長800mに及ぶ石垣や中庭は良好に旧状を留めている。

御根小屋跡

 

頼久寺庭園 (高梁市頼久寺町)

 城下町の東山麓の寺社群の一つ。

 臨済宗永源寺派の寺院。

 大海波をサツキの大刈込で表現した蓬莱式枯山水庭園は、小堀遠州の作庭と言われている。

 戊辰戦争により、朝敵となった備中松山藩は、備前岡山藩を中心とした征討軍に城を無血開城、版籍奉還後に旧藩再興活動に向けた重要な会議が当所で開催された。

 

頼久寺庭園

有終館跡 (高梁市中之町)

 延享3年(1746)に、初代藩主板倉勝澄によって創設された学問所は、4代勝政の時に藩校「有終館」として整備された。

 方谷は、天保7年(1836)32歳で学頭に就任、朱子学を中心に講義した。

 同10年(1839)、火災で焼失したが、方谷の尽力により現在地に再建された。

有終館跡

有終館のクロマツ (高梁市中之町)

 天保10年(1839)の火災で焼失した有終館は、方谷の強い要望で再建された。

 このクロマツは、その際に方谷により植えられたとされる。

有終館のクロマツ

備中松山藩御茶屋跡 (高梁市奥万田町)

 藩主別邸の一つ。山田方谷が城下滞在時に使用。

 司馬遼太郎の歴史小説『峠』に登場する越後長岡藩士河井継之助が逗留した施設で、方谷や門人らと交流した。

 水車が併設されたいたことから、通称「水車」とも呼称された。

御茶屋

見返りの榎 (高梁市高倉町飯部)

 長瀬塾の高梁川対岸にある榎の巨樹。

 安政6年(1859)、来遊した越後長岡藩士河井継之助が、方谷との別れを惜しんだとされる場所に立つ。

 対岸で見送る方谷家の人々に、何度も土下座拝礼したとされる。

見返りの榎

JR伯備線 方谷駅舎 (高梁市中井町西方)

 長瀬塾に建設された駅舎(国登録有形文化財)。

 駅名には、地元住民の陳情を受け、「方谷」が採用された。

 駅構内には、方谷の功績などを紹介した「方谷駅資料室」が開設されている。

方谷駅

長瀬塾跡 (高梁市中井町西方)

 方谷が安政6年(1859)に土着した住居跡。

 同年には、越後長岡藩士河井継之助が来遊し、方谷に師事した。

 明治2年(1869)には、「長瀬塾」を開塾。

 現在は、JR伯備線の方谷駅となっている。

長瀬塾跡

方谷園 (高梁市中井町西方)

 明治43年(1910)に、方谷の功績を末永く顕彰するために整備された公園。

 園内には、方谷と山田家歴代の墓や三島中洲撰文の記念碑などがある。

方谷園