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山田方谷

ページID:0041251 印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月4日更新

山田方谷

 1805年2月21日  現在の岡山県高梁市中井町に生まれる。

 1877年6月26日  現在の新見市大佐小阪部にて死去。

 

 備中松山藩の藩校「有終館」学頭から、嘉永2年(1849)に藩の財政責任者である「元締役兼吟味役」に抜擢されました。

 藩主板倉勝静のもと、十万両(数百億円)の借財を抱え、財政破綻寸前であった藩の財政を、わずか七年で十万両の蓄財に変え、藩の財政を再建。

 稀代の藩政改革者として名を馳せました。

 

藩政改革を支えた山田方谷の思想

理財論  佐藤一斎塾の塾頭をしていたときに書いた経済論

 「事の外に立ちて事の内に屈せず」「義を明らかにして利を図らず」という言葉に代表されます。

 目先の問題にとらわれず大局的な見地から物事の全般を見通すことが大切であり、政治に携わる者は、金銭の増減のみを追求するのではなく、綱紀粛正や教育の振興などに努め、善政を行えば、結果として財政は豊かになると説いています。

擬対策  江戸遊学から帰藩したころに書いた政治論

 天下の士風(モラル)が衰え、賄賂が公然と行われたり、度が過ぎて贅沢なことが、備中松山藩の窮乏の原因だとし、これを改めるには、主君と部下がともに反省し、規範意識を高め、旧来の弊害を取り除くことが肝心であると説いています。

藩政改革後の方谷

 勝静が江戸幕府の老中となると、その政治顧問として幕政にも関与し、その名はさらに全国に知れ渡りました。

 また、教育にも情熱を注ぎ、二松學舍大学を創設した三島中洲(倉敷市出身)や越後長岡藩士河井継之助など、幕末から明治にかけてのリーダーを育てました。