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年表

ページID:0036918 印刷用ページを表示する 掲載日:2019年3月4日更新

山田方谷 略年表

 
和暦 西暦 年齢 月日 主な出来事
文化2年 1805 2月21日

備中松山藩領阿賀郡西方村に父五郎吉、母梶の長男として生まれる
幼名阿璘、名は球、通称は安五郎、方谷は号

   5年 1808 4   母梶から文字を習う。近隣の神社に揮毫額を奉納
   6年 1809 5   新見藩の儒学者 丸川松隠に入門
   7年 1810 6   新見藩六代藩主 関長輝の前で揮毫披露
文政元年 1818 14 8月27日 母梶が死去、父が継母近と再婚
   2年 1819 15 7月4日 父五郎吉 死去
   3年 1820 16   方谷が実家を継ぎ、家業と勉学に励む
   4年 1821 17   新見藩士の女進を妻に迎える
   8年 1825 21 12月 備中松山藩主板倉勝職から二人扶持を賜り、藩校有終館での修学を許される
   9年 1826 22   長女 瑳奇が生まれる
  10年 1827 23   春、京都に遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿に学ぶ、年末に帰郷
  12年 1829 25   再び京都遊学、寺島白鹿に学ぶ
      12月 苗字帯刀許可、八人扶持を賜り、中小姓格に上り、藩校有終館会頭を命じられる
天保2年 1831 27 7月 二年間の京都遊学が許可され、鈴木遺音の門に出入りし、春日潜庵らと交わる
      8月4日 丸川松隠 死去
   4年 1833 29 12月 王陽明の『伝習録』を読む、江戸への遊学を許可される
   5年 1834 30 1月 佐藤一斎の塾に入門、三年間修学し、塾頭となる
   6年 1835 31   一斎門下の佐久間象山と日夜議論
   7年 1836 32 9月 藩主勝職の帰国に従い帰藩、佐藤一斎から「盡己」の書を贈られる
      10月 藩校有終館学頭を命じられ、城下御前丁に邸宅を賜る
   8年 1837 33 2月 大塩平八郎の乱
   9年 1838 34   有終館学頭の傍ら家塾牛麓舎を開く、進鴻渓・大石隼雄・林富太郎らが入門
  10年 1839 35 城下の火災により有終館類焼、方谷の尽力で再建
  12年 1841 37 5月 天保の改革 始まる
  13年 1842 38 6月 藩主勝職が、伊勢桑名藩主松平定永の八男寧八郎(勝静)を養嗣子に迎える
  14年 1843 39   三島中洲・矢吹久次郎が牛麓舎へ入門
弘化元年 1844 40 6月 板倉勝静 入国、方谷が侍講を務める
   3年 1846 42   近習役を兼務
   4年 1847 43   妻進と離縁
      4月 三島中洲を伴い、美作津山藩士 天野直人に洋式大砲および銃陣について学ぶ
嘉永2年 1849 45 4月 勝静が藩主(周防守と改称)となる
      11月27日 弟平人 死去
      12月9日 元締役兼吟味役を拝命する
   3年 1850 46   上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励等を掲げ、藩政改革を進める
      10月 大坂の債主と返済計画を協議
      10月26日 継母近 死去
   4年 1851 47 6月 勝静が奏者番となる
   5年 1852 48 7月 郡奉行兼務、民政改善を進める
        松山に撫育方、江戸に産物方を設置し、殖産興業を推進
      9月 古い藩札を回収して、近似河原で焼却、新藩札「永銭」を発行
        農兵による「里正隊」を編成、銃を給付し西洋式銃陣を訓練
   6年 1853 49 6月3日 ペリー、浦賀に来航

嘉永7年

安政元年

1854 50 3月 日米和親条約締結(下田・函館開港)
        娘小雪誕生(母は荒木主計の姉)
   3年 1856 52   年寄役助勤に就任、妻に緑を迎える
   4年 1857 53   元締役を辞任(後任 大石隼雄)
      8月 勝静、寺社奉行を兼務
   5年 1858 54 6月 日米修好通商条約調印(無勅許)
      6月 城外の野山村に藩士の移住を奨励し、志願者を募る
      9月 安政の大獄が始まる(翌年、吉田松陰 処刑)
      9月 久坂玄瑞来遊、桔梗河原で洋式調練を視察
   6年 1859 55 2月 勝静、奏者番兼寺社奉行 罷免
      4月 西方村長瀬に移住、草庵を造り、無量寿庵と称す
      7月 越後長岡藩士河井継之助来遊、方谷に師事

安政7年

万延元年

1860 56 3月3日 桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺)
      3月3日 河井継之助、長岡へ帰郷、方谷が王陽明全集を譲渡
      10月 再び、元締役就任
文久元年 1861 57 2月 勝静、再び奏者番兼寺社奉行就任、方谷は顧問として江戸へ上る
      5月 病のため帰国、元締役を辞め、御勝手掛に就任
      11月 和宮内親王、将軍徳川家茂に降嫁する
   2年 1862 58 1月15日 坂下門外の変(老中安藤信正刺傷)
      3月15日 勝静、老中となり外国事務担当
      4月8日 再び政治顧問として江戸へ上る
        米製洋式帆船を横浜で購入し、「快風丸」と命名
      7月 島津久光、率兵上京(文久の改革)
      8月 生麦事件
      閏8月 勝静、越前福井藩士横井小楠から時事に関する意見聴取、方谷列席
      12月 隠居を許され、家禄を嗣子耕蔵に譲る、以後年寄役に準じて藩政に関与(翌年2月帰国)
   3年 1863 59 3月 将軍家茂上洛、一橋慶喜・勝静も随行
      4月 困難な時局の中で、再度上京し勝静を補佐
      5月10日 長州藩、下関通過の外国船を砲撃
      6月 帰藩を許され、勝静が将軍から拝領した襦袴を賜る
      8月17日 天誅組の乱
      8月18日 八月十八日の政変(三条実美ら七卿都落ち)
元治元年 1864 60   長瀬対岸の瑞山(水山)を開墾し、草庵を構える
      6月 勝静、老中罷免
      7月 禁門の変(久坂玄瑞自刃)、佐久間象山暗殺
      7月 勝静、第一次長州征討の山陽道先鋒を命じられる
      11月 藩主不在の兵権を委任され、頼久寺に入る、郷兵千二百余人を藩堺に配置する
        備中松山藩、吉岡銅山を買収(明治6年に三菱商会の岩崎弥太郎へ売却)

元治2年

慶応元年

1865 61 10月 勝静、老中就任(伊賀守と改称)
   2年 1866 62 4月 浅尾騒動発生、一隊を率いて野山口に出陣
      6月 第二次長州征討
      7月20日 将軍徳川家茂、大坂城で死去
      8月 勝静の諮問に応じ、長州藩存置の三策を献ずる
      12月5日 徳川慶喜が15代将軍となる
   3年 1867 63 6月 再度京阪の地に赴き、勝静を補佐
      8月 帰藩を許され、勝静から短刀を賜る
      10月14日 大政奉還奏上
      12月9日 王政復古宣言(小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を決定)
        娘小雪、矢吹に嫁ぐ

慶応4年

明治元年

1868 64 1月 戊辰戦争始まる、勝静、江戸・日光・奥州を経て箱館へ、備中松山藩は朝敵とされる
      1月18日 備中松山城を征討軍(備前岡山藩)に無血開城する
      1月22日 玉島の柚木邸で、熊田恰が切腹
   2年 1869 65 5月 勝静、江戸で自訴状提出(明治5年に禁錮を赦免される)
      6月 長瀬塾の塾舎を増築
      9月 高梁藩二万石で再興(藩主板倉勝弼)
   3年 1870 66 10月 長瀬から小阪部に転居し、小阪部塾を開く
   4年 1871 67 7月14日 廃藩置県、高梁県となる
      8月 明親館(真庭市台金屋)の開校にあたり、『大学』を講義
   5年 1872 68 1月 娘小雪 死去
      11月 金剛寺(新見市大佐小南)境内に庵(方谷庵)を造営
   6年 1873 69 3月 閑谷精舎(備前市閑谷)に赴き、講義(以後、明治9年まで春・秋に赴く)
      12月 知本館(美咲町大戸)で『大学』を講義
   7年 1874 70 12月 温知館(美崎町行信)の開校にあたり、『論語』を講義
   8年 1875 71 4月 高梁で勝静と対面(勝静、長瀬に三泊)
   9年 1876 72 11月 病で床につく
  10年 1877 73 6月26日 小阪部で死去、三日後に西方村の墓地に埋葬