山田方谷 略年表
和暦 | 西暦 | 年齢 | 月日 | 主な出来事 |
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文化2年 | 1805 | 1 | 2月21日 |
備中松山藩領阿賀郡西方村に父五郎吉、母梶の長男として生まれる |
5年 | 1808 | 4 | 母梶から文字を習う。近隣の神社に揮毫額を奉納 | |
6年 | 1809 | 5 | 新見藩の儒学者 丸川松隠に入門 | |
7年 | 1810 | 6 | 新見藩六代藩主 関長輝の前で揮毫披露 | |
文政元年 | 1818 | 14 | 8月27日 | 母梶が死去、父が継母近と再婚 |
2年 | 1819 | 15 | 7月4日 | 父五郎吉 死去 |
3年 | 1820 | 16 | 方谷が実家を継ぎ、家業と勉学に励む | |
4年 | 1821 | 17 | 新見藩士の女進を妻に迎える | |
8年 | 1825 | 21 | 12月 | 備中松山藩主板倉勝職から二人扶持を賜り、藩校有終館での修学を許される |
9年 | 1826 | 22 | 長女 瑳奇が生まれる | |
10年 | 1827 | 23 | 春、京都に遊学し、丸川松隠の旧知である寺島白鹿に学ぶ、年末に帰郷 | |
12年 | 1829 | 25 | 再び京都遊学、寺島白鹿に学ぶ | |
12月 | 苗字帯刀許可、八人扶持を賜り、中小姓格に上り、藩校有終館会頭を命じられる | |||
天保2年 | 1831 | 27 | 7月 | 二年間の京都遊学が許可され、鈴木遺音の門に出入りし、春日潜庵らと交わる |
8月4日 | 丸川松隠 死去 | |||
4年 | 1833 | 29 | 12月 | 王陽明の『伝習録』を読む、江戸への遊学を許可される |
5年 | 1834 | 30 | 1月 | 佐藤一斎の塾に入門、三年間修学し、塾頭となる |
6年 | 1835 | 31 | 一斎門下の佐久間象山と日夜議論 | |
7年 | 1836 | 32 | 9月 | 藩主勝職の帰国に従い帰藩、佐藤一斎から「盡己」の書を贈られる |
10月 | 藩校有終館学頭を命じられ、城下御前丁に邸宅を賜る | |||
8年 | 1837 | 33 | 2月 | 大塩平八郎の乱 |
9年 | 1838 | 34 | 有終館学頭の傍ら家塾牛麓舎を開く、進鴻渓・大石隼雄・林富太郎らが入門 | |
10年 | 1839 | 35 | 春 | 城下の火災により有終館類焼、方谷の尽力で再建 |
12年 | 1841 | 37 | 5月 | 天保の改革 始まる |
13年 | 1842 | 38 | 6月 | 藩主勝職が、伊勢桑名藩主松平定永の八男寧八郎(勝静)を養嗣子に迎える |
14年 | 1843 | 39 | 三島中洲・矢吹久次郎が牛麓舎へ入門 | |
弘化元年 | 1844 | 40 | 6月 | 板倉勝静 入国、方谷が侍講を務める |
3年 | 1846 | 42 | 近習役を兼務 | |
4年 | 1847 | 43 | 妻進と離縁 | |
4月 | 三島中洲を伴い、美作津山藩士 天野直人に洋式大砲および銃陣について学ぶ | |||
嘉永2年 | 1849 | 45 | 4月 | 勝静が藩主(周防守と改称)となる |
11月27日 | 弟平人 死去 | |||
12月9日 | 元締役兼吟味役を拝命する | |||
3年 | 1850 | 46 | 上下節約・負債整理・産業振興・紙幣刷新・士民撫育・文武奨励等を掲げ、藩政改革を進める | |
10月 | 大坂の債主と返済計画を協議 | |||
10月26日 | 継母近 死去 | |||
4年 | 1851 | 47 | 6月 | 勝静が奏者番となる |
5年 | 1852 | 48 | 7月 | 郡奉行兼務、民政改善を進める |
松山に撫育方、江戸に産物方を設置し、殖産興業を推進 | ||||
9月 | 古い藩札を回収して、近似河原で焼却、新藩札「永銭」を発行 | |||
農兵による「里正隊」を編成、銃を給付し西洋式銃陣を訓練 | ||||
6年 | 1853 | 49 | 6月3日 | ペリー、浦賀に来航 |
嘉永7年 安政元年 |
1854 | 50 | 3月 | 日米和親条約締結(下田・函館開港) |
娘小雪誕生(母は荒木主計の姉) | ||||
3年 | 1856 | 52 | 年寄役助勤に就任、妻に緑を迎える | |
4年 | 1857 | 53 | 元締役を辞任(後任 大石隼雄) | |
8月 | 勝静、寺社奉行を兼務 | |||
5年 | 1858 | 54 | 6月 | 日米修好通商条約調印(無勅許) |
6月 | 城外の野山村に藩士の移住を奨励し、志願者を募る | |||
9月 | 安政の大獄が始まる(翌年、吉田松陰 処刑) | |||
9月 | 久坂玄瑞来遊、桔梗河原で洋式調練を視察 | |||
6年 | 1859 | 55 | 2月 | 勝静、奏者番兼寺社奉行 罷免 |
4月 | 西方村長瀬に移住、草庵を造り、無量寿庵と称す | |||
7月 | 越後長岡藩士河井継之助来遊、方谷に師事 | |||
安政7年 万延元年 |
1860 | 56 | 3月3日 | 桜田門外の変(大老井伊直弼暗殺) |
3月3日 | 河井継之助、長岡へ帰郷、方谷が王陽明全集を譲渡 | |||
10月 | 再び、元締役就任 | |||
文久元年 | 1861 | 57 | 2月 | 勝静、再び奏者番兼寺社奉行就任、方谷は顧問として江戸へ上る |
5月 | 病のため帰国、元締役を辞め、御勝手掛に就任 | |||
11月 | 和宮内親王、将軍徳川家茂に降嫁する | |||
2年 | 1862 | 58 | 1月15日 | 坂下門外の変(老中安藤信正刺傷) |
3月15日 | 勝静、老中となり外国事務担当 | |||
4月8日 | 再び政治顧問として江戸へ上る | |||
米製洋式帆船を横浜で購入し、「快風丸」と命名 | ||||
7月 | 島津久光、率兵上京(文久の改革) | |||
8月 | 生麦事件 | |||
閏8月 | 勝静、越前福井藩士横井小楠から時事に関する意見聴取、方谷列席 | |||
12月 | 隠居を許され、家禄を嗣子耕蔵に譲る、以後年寄役に準じて藩政に関与(翌年2月帰国) | |||
3年 | 1863 | 59 | 3月 | 将軍家茂上洛、一橋慶喜・勝静も随行 |
4月 | 困難な時局の中で、再度上京し勝静を補佐 | |||
5月10日 | 長州藩、下関通過の外国船を砲撃 | |||
6月 | 帰藩を許され、勝静が将軍から拝領した襦袴を賜る | |||
8月17日 | 天誅組の乱 | |||
8月18日 | 八月十八日の政変(三条実美ら七卿都落ち) | |||
元治元年 | 1864 | 60 | 長瀬対岸の瑞山(水山)を開墾し、草庵を構える | |
6月 | 勝静、老中罷免 | |||
7月 | 禁門の変(久坂玄瑞自刃)、佐久間象山暗殺 | |||
7月 | 勝静、第一次長州征討の山陽道先鋒を命じられる | |||
11月 | 藩主不在の兵権を委任され、頼久寺に入る、郷兵千二百余人を藩堺に配置する | |||
備中松山藩、吉岡銅山を買収(明治6年に三菱商会の岩崎弥太郎へ売却) | ||||
元治2年 慶応元年 |
1865 | 61 | 10月 | 勝静、老中就任(伊賀守と改称) |
2年 | 1866 | 62 | 4月 | 浅尾騒動発生、一隊を率いて野山口に出陣 |
6月 | 第二次長州征討 | |||
7月20日 | 将軍徳川家茂、大坂城で死去 | |||
8月 | 勝静の諮問に応じ、長州藩存置の三策を献ずる | |||
12月5日 | 徳川慶喜が15代将軍となる | |||
3年 | 1867 | 63 | 6月 | 再度京阪の地に赴き、勝静を補佐 |
8月 | 帰藩を許され、勝静から短刀を賜る | |||
10月14日 | 大政奉還奏上 | |||
12月9日 | 王政復古宣言(小御所会議で徳川慶喜の辞官納地を決定) | |||
娘小雪、矢吹に嫁ぐ | ||||
慶応4年 明治元年 |
1868 | 64 | 1月 | 戊辰戦争始まる、勝静、江戸・日光・奥州を経て箱館へ、備中松山藩は朝敵とされる |
1月18日 | 備中松山城を征討軍(備前岡山藩)に無血開城する | |||
1月22日 | 玉島の柚木邸で、熊田恰が切腹 | |||
2年 | 1869 | 65 | 5月 | 勝静、江戸で自訴状提出(明治5年に禁錮を赦免される) |
6月 | 長瀬塾の塾舎を増築 | |||
9月 | 高梁藩二万石で再興(藩主板倉勝弼) | |||
3年 | 1870 | 66 | 10月 | 長瀬から小阪部に転居し、小阪部塾を開く |
4年 | 1871 | 67 | 7月14日 | 廃藩置県、高梁県となる |
8月 | 明親館(真庭市台金屋)の開校にあたり、『大学』を講義 | |||
5年 | 1872 | 68 | 1月 | 娘小雪 死去 |
11月 | 金剛寺(新見市大佐小南)境内に庵(方谷庵)を造営 | |||
6年 | 1873 | 69 | 3月 | 閑谷精舎(備前市閑谷)に赴き、講義(以後、明治9年まで春・秋に赴く) |
12月 | 知本館(美咲町大戸)で『大学』を講義 | |||
7年 | 1874 | 70 | 12月 | 温知館(美崎町行信)の開校にあたり、『論語』を講義 |
8年 | 1875 | 71 | 4月 | 高梁で勝静と対面(勝静、長瀬に三泊) |
9年 | 1876 | 72 | 11月 | 病で床につく |
10年 | 1877 | 73 | 6月26日 | 小阪部で死去、三日後に西方村の墓地に埋葬 |