幕末の備中松山藩において、藩政改革を成し遂げた山田方谷の事績について、「儒学者への道」「備中松山藩の藩政改革」「教育への情熱」の3つのテーマに分けて、歴史資料や解説パネルなど約40点により、わかりやすく展示・紹介しています。
山田方谷(1805~1877)は、備中国阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)の農商家に生まれ、幼少期から勉学に励み、5歳で新見藩の儒学者丸川松陰に師事しました。
父母の死により、松陰の塾を離れ、家業を継ぐこととなりましたが、父の遺訓を守り、家業と学問に精励しました。
21歳の時には、備中松山藩主板倉勝職に優れた学才を評価され、二人扶持を給され、藩校「有終館」への出仕を許可されています。
その後、京都・江戸の遊学を経て帰藩。
32歳で「有終館」学頭に就任するとともに、家塾「牛麓舎」を開き、優秀な人材を育成しました。
板倉勝静が新藩主となると、方谷は藩の財政責任者である「元締役兼吟味役」に抜擢されました。
当時の藩の財政は、慢性的な赤字に加え、10万両に及ぶ借財に苦しむ危機的状況でした。
彼は、単なる負債整理と節約・緊縮政策にとどまらず、産業振興・民政刷新・文武奨励・軍政改革等の分野で、大胆かつ的確な改革案を提示し、着実に実行しました。
その結果、7年後には全借財を返済した上に、10万両を蓄財するという成果を導いています。
このことにより、藩主勝静の幕政参画の道が開かれ、自らも政治顧問として江戸に出府し、幕末動乱期の政治に携わることとなりました。
方谷は、藩校「有終館」や家塾「牛麓舎」で優秀な人材を育成し、藩の要職へも積極的に登用しました。
明治以降には「長瀬塾」(現高梁市中井町西方)・「小阪部塾」(現新見市大佐小阪部)を開き、多くの後進の指導に意を注いでいます。
また、美作地域の郷学創設や、「閑谷学校」(現備前市閑谷)の再興にも積極的に関与しました。
幕末から明治初期に至る激動の時代を駆け抜けた方谷は、万時につけて「至誠惻怛」(誠意を尽くし人を思いやる心)と、「士民撫育」(すべては藩士と領民のために)の精神を貫き、その教えは現代の我々の心にも深く刻まれています。